応仁の乱を生んだ? 興福寺の歴史/呉座勇一「応仁の乱」

奈良・興福寺の歴史について調べていたところ、
応仁の乱勃発への文脈の中に興福寺が登場することに驚いた。

著者によると京都市街を主戦場とした応仁の乱(1467~77年)は、
その原因を辿っていくと興福寺の内部抗争に辿り着くのだと言う。

以下に応仁の乱に至るまでの興福寺の歴史をざっとまとめておこう。

奈良・平安時代の興福寺

藤原不比等によって興福寺が現在の地に建てられたのは710年。
平城京遷都に合わせて藤原氏の氏寺を移してきたのだが立地が凄い。
平城京の天皇の御所から見て、太陽の昇る東側の高台にあり、
藤原氏が天皇家を凌駕する存在であることを示しているかのようだ。

藤原氏と興福寺の関係がより密接になるのは、
藤原師実の息子、覚信(道長のひ孫にあたる)が10歳で出家し(1074年)、
1100年に興福寺別当(興福寺のトップ)に就任してからのこと。

時は白河院の時代(1073~1129年)にあたり、
院政の定着による摂関の政治的権威低下を恐れた藤原氏が、
大和国一帯を支配していた興福寺との関係を深めたのだという。

鎌倉・室町時代の興福寺

1180年に平清盛の子、重衡による焼き討ちでほぼ全焼するが再建。
鎌倉幕府成立後も大和国には守護は設置されず、事実上の大和守護として君臨し続ける。

しかし鎌倉時代に藤原家が近衛家と九条家に分裂し、
近衛家は一乗院に、九条家は大乗院に子弟を送り込むようになると、
一条院と大乗院の間で荘園などの利権を巡って対立が激化。
永仁の南都闘乱(1293年)、観応の確執(1351年)を経て大和国内は完全に二分される。

またこの時、双方の実働部隊として活躍した
一乗院方の筒井氏と大乗院方の越智氏のような武士達に対立が受け継がれ、
やがて大和一国にひろがる争乱、大和永享の乱(1429~39年)が勃発。

これが嘉吉の変(1441年/足利義教の暗殺)にもつながり、
その後政治的な混迷が続いたことで応仁の乱(1467~77年)へとつながっていく。