ユクスキュル「環世界“Umwelt”」。
すべての生物は知覚の枠内でしか世界を認識できない。
私たちが「客観的」だと信じている、この目に映る世界は、
世界全体から「主観的」にある一部分を型抜きしたものにすぎない。
生物学者、日高敏隆氏の言葉を借りれば「イリュージョン」なのだ。
「人間も人間以外の動物も、イリュージョンによってしか世界を認知し構築し得ない。そして何らかの世界を認知し得ない限り、生きていくことはできない。」-日高敏隆「動物の人間の世界認識」P195
知性の限界ともいうべき、知覚の幻想があることは分かった。
でもさらに進んで、私たちの「意識」でさえも幻想!?
様々な分野を編集をしながら、そんな衝撃的な指摘をしたのが、
ノーレットランダーシュ「ユーザーイリュージョン」。
アメリカの神経生理学者ベンジャミン・リベットによると、
- 意識が生じるまでには0.5秒の脳活動が必要
- 意識は時間的な繰り上げ調整を行い、0.5秒の誤差をごまかす
意識が錯覚だとすると、「私」は一体どこにいるのか?
そういえば約3000年前まで人類は「意識」を持っていなかった。
そんな指摘をしたのが、ジュリアン・ジェインズ「神々の沈黙」。
「遠い昔、人間の心は、命令を下す「神」と呼ばれる部分と、それに従う「人間」と呼ばれる部分に二分されていた。」P109
古代人はバイキャメラル・マインド(二分心)状態にあり、
右脳に「神」が宿り、左脳である「人間」に語りかけるという仮説。
そして文字の出現により、二分心は後退し意識が芽ばえていく。
でも私たちが手に入れたかに見えた意識(自由意志)も、
ユーザーイリュージョンにすぎないのだろうか?
ノーレットランダーシュの語りの重要部分(P351~353)を引用すると、
「意識が私たちに示す感覚データは、すでに大幅に処理されているのだが、意識はそうとは教えてくれない。意識が示すものは、生のデータのように思えるが、じつはコンテクストというカプセルに包まれており、そのカプセルがなければ、私たちの体験はまったく別物になる。」
前述の0.5秒の誤差の間に意志決定の重要部分がある。
「意識的な自覚が起こる前に、膨大な量の感覚情報が捨てられる。そして、その捨てられた情報は示されない。だが、経験そのものは、この捨てられた情報に基づいている。」
「私たちは感覚を経験するが、その感覚が処理されたものだということは経験しない。」
そして0.5秒間に何がなされたのかを、私たちは知ることはない。
「人が体験するのは、生の感覚データではなく、そのシミュレーションだ。感覚体験のシミュレーションを、人は経験している。物事自体を体験しているのではない。物事を感知するが、その感覚は経験しない。その感覚のシミュレーションを体験するのだ。」
以上をまとめるとこういうことになる。
「人が直接体験するのは錯覚であり、・・・この錯覚こそが意識の核であり、解釈され、意味のある形で経験される世界だ。」
私たちの目にするものはすべて錯覚、夢うつつ。。。
古今和歌集942番のよみ人知らずの和歌を思い出す。
世の中は 夢かうつつか うつつとも 夢とも知らず ありてなければ
この世は夢か現実(うつつ)か分からない。
たしかに「ある」ようにも見えるけど、いつかは「なくなる」もので、
もしかすると、はじめから「なかった」のかもしれない。。。
コメント
ジェインズ、ノーレットランダージュ、リベット、どれも刺激的でした(自分には刺激的以上)。まとめ、わかりやすかったです。