みずから「お題」を作り、高速に「好み」を答え、断言する。
あちこち飛びながらも取り合わせが絶妙なエッセイ集「枕草子」。
清少納言が「桜」をどう見てたのか気になったので編集してみた。
「さても春ごとに咲くとて、桜をよろしう思ふ人やはある。」(39)
毎年、花を咲かせる桜を「もう見飽きたよ」なんて人はいないでしょ?
だから私も昨年に引き続き1~3月は「日本文化に舞う桜」をめぐる。
「木の花は濃きも薄きも紅梅。桜の花びらおほきに、葉色こきが、枝ほそくて咲きたる。藤の花、しなひ長く色よく咲きたる、いとめでたし。」(37)
桜は花びらが大きく、葉の色が濃く、細い枝に咲いているのが好き。
ソメイヨシノは江戸以降だから、この描写はヤマザクラだね。
「おもしろく咲きたる桜を長く折りて、大なる花瓶にさしたるこそをかしけれ。」(4)
「高欄のもとに、青き瓶の大なる据ゑて、桜のいみじくおもしろき枝の五尺ばかりなるを、いと多くさしたれば、高欄のもとまでこぼれ咲きたるに・・・」(23)
桜の枝を折って花瓶に挿すのが「をかし」だったんだね。
「絵にかきおとりするもの なでしこ。菖蒲。桜。物語にめでたしといひたる男・女のかたち。」(116)
「いやしげなるもの ・・・新しくしたてて、桜の花多くさかせて、胡粉、朱砂など色どりたる絵書きたる。」(149)
清少納言は絵に描かれた桜は嫌いだったみたい。
「桜など散りぬるも、なほ世の常なりや。」(35)
今回、一番の発見だったのがこの一文。
散りゆく桜に世の無常を見る。
そんな日本人の美意識はこの頃すでにあったのか。。。
※去年学んだ範囲では西行が転換点だと考えていた。
この記事も踏まえた100円の小冊子つくりました。
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コメント
自然が不変であるのに対し、人事は無常だというのは
例えば劉希夷の「白頭を悲しむ翁に代る」の年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからずという一節や杜甫の「春望」などに見られますが、散る花などの自然に人の世の儚さを見るのはいつからなのでしょうね。
清少納言以前にも、花に容色の衰えを詠んだ小町の「花の色は」歌がありますが、これはちょっと違いますか。
個人的に無常を詠んだ歌では
西園寺公経の
『花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり』
が好きです。
私は人生が儚いものだとは思いませんが、太政大臣にまで上り詰め、絶大な権力を手にしても老いには敵わない。そんなことを詠んだこの歌を鑑賞するとき、時間を前にしては人間もちっぽけな存在だと考えさせられます。
小野小町の「花の色は」はちょっと迷うかな。
貴族社会の「この世=男女の仲」という面が色濃く、小町が和歌に詠んだ「花」は「女性の美貌」であったり、他の歌では「うつろいやすい恋心」。だから人生そのものに「無常」を見るところまではいってなかったのではと。
その点、枕草子のこの一節は前後を読むと、はっきり「人生の無常」を描いているように思えたので。