鷲田清一「『待つ』ということ」

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タイパ」について考えるための読書の続編。
最初の二冊はタイパという言葉が現れて以後に書かれた本。
続いては時をさかのぼり、2006年に出版された、
日本でiPhoneが発売されたのが2008年。すでにスマホ以前の段階で、待つことのできない社会になっていた。

「待つ」とは何だったのか?

難しい内容も多かったが、ところどころにこの表現キレイだなぁ、と感じさせられる、「待つ」に関する表現の数々。。。
「ひとは向こうからやってくるのを期して〈待つ〉。〈待つ〉ことには、「期待」や「希い」や「祈り」が内包されている。否、いなければならない。〈待つ〉とは、その意味で、抱くことなのだ。」
「意のままにならないもの、偶然に翻弄されるもの、じぶんを超えたもの、じぶんの力ではどうにもならないもの、それに対してはただ受け身でいるしかないもの、いたずらに動くことなくただそこにじっとしているしかないもの。そういうものにふれてしまい、それでも「期待」や「希い」や「祈り」を込めなおし、幾度となくくりかえされるそれへの断念のなかでもそれを手放すことなくいること、おそらくはそこに、〈待つ〉ということがなりたつ。」
「無限に続くとおもわれるこの時間との折り合いについては、言葉に事欠かない。待ちわびて、待ちあぐねて、待ちかねて、待ちくたびれて、待ち明かして、待ちつくして……というふうに、あてどなく待つときの想いを表わす言葉は、苦くも豊饒だ。」

「待つ」とは信じて、祈ること。

「待つ」に関する著者の表現をたどりながら、頭に浮かぶのは、百人一首の選者、藤原定家が自選した一首。
来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに
焼くやもしほの 身もこがれつつ
待ってもあなたは来てくれなかったけど、いつも私はあなたを想い、恋いこがれています。
恋の和歌を贈った相手の返事を待つしかなかった時代は、「待つ」ことは、相手を「信じる」ことだった。
また日本では神がどこかに常駐する「主」ではなく、たまに訪れる「客」だったことを考えれば、
「待つ」ことは、神に「祈る」ことでもあったともいえる。
様々な形で文化に織り込まれてきた「待つ」は、もうない。

なぜ私たちは「待つ」ことができなくなったのか?

いつのことからかは分からないが、未来に対して理想や目標を持って進むことが正しいとされるようになった。そんな風潮が「待つ」という感覚を私たちから奪っていったのだ。
「未来というものの訪れを待ち受けるということがなく、いったん決めたものの枠内で一刻も早くその決着を見ようとする。待つというより迎えにゆくのだが、迎えようとしているのは未来ではない。ちょっと前に決めたことの結末である。決めたときに視野になかったものは、最後まで視野に入らない。」
想定通りの未来を迎えるために、前のめりになって現在を駆け抜ける。不思議なめぐり逢いでふいに眼の前に現れる偶然は、かつては幸運だったが、今では想定外の事故でしかないのかもしれない。
「タイパ」の探求をしていたら、前々からの探求テーマの「偶然」に戻ってきてしまった。
これでいいのか???(慣れた論点に差し替えた疑い…)
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