現時点のプロフィール

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30代前半の頃、大学のゼミなどでお話しさせていただく何度かあり、若い人に投資の魅力をどう伝えるのがいいのか迷っていた。でも私の経歴そのものが投資への関心を高めると教えてくれた人がいて、その後、新聞記事にもなった。そんなわけで投資に関わる私の経歴をここに書き出して、公開しておくことにした。

1998年8月(20歳)

初めてのパソコンを手にして、当時の最新技術インターネットが学べそうだからウェブサイトを作ってみた。コンテンツは超短編の推理小説。すると2001年に日本テレビで放送されていた「週刊ストーリーランド」の番組制作会社からアニメ化の提案を受ける。がしかし!! 話が進みかけた矢先に番組自体が打ち切りになってしまう。

でもこの時にWeb上へ文章を載せることの凄さを実感。思わぬ人の目に止まって人生が不連続にジャンプすることがあるのでは?という想いが、長年ブログを書き続ける原動力と言えるだろう。

2000年春(22歳)

大学4年生の春に「あなたの世代は年金もらえないから株式投資の勉強をしなさい」と母からへそくり100万円を渡されたのをきっかけに、株式投資をはじめる。

就職活動の時期が運悪く就職氷河期と呼ばれた時代。社会で活躍する道は閉ざされたと思い込み、ならば株式投資で世間を見返してやろうじゃないか!と意気込んでいたが…

当時はITバブルのピーク。ミニ株で当時、株価2万円のソニー、株価3千円の富士通に投資し、あっという間に半分以下に。

2001年秋頃から(23歳)

株価チャートとニュースに振り回される投資から抜け出すべく、資格試験を使って会計の勉強をはじめる。2~3年で合格したのが、

  • AFP
  • 日商簿記2級
  • 税理士試験の会計科目(簿記論・財務諸表論)

勉強の進捗に合わせて、バリュー投資が身につきはじめる。2003年の日本株大底の時に役立った。

2002年(24歳)

自身のWebサイトで投資や経済について学んだことをまとめはじめる。この頃すでにWebサイト制作者の立場でGoogleの凄さに気がついていたのだが、2004年の上場時に投資するという発想につながらなかった。。。

2004年(26歳)

投資のために身につけた会計の知識のおかげで税理士事務所で働きはじめる。もともとは仕事を依頼する税理士さんを探すことが目的だったが、2014年春頃まで事務所に生息し、たくさんのことを学ばせてもらった。中小企業の経営、とくに総務関係の効率化が身についたことが後に役立った。

2005年8月(27歳)

Webサイトの更新がブログ形式の方が簡単であることが分かり、現在のブログ「投資を楽しむ♪」をはじめる。

この年、羽生善治さんの「決断力」と出会い、以来著書のすべてに目を通し、その思考法を投資家として大変参考にしている。「学習の高速道路」を切り口に、2006年から更新をし続けるまとめ記事は、ブログ内でもっとも閲覧数の多い記事になっている。

2006年5月(28歳)

ブログがきっかけで28歳の誕生日に日経ビジネスの取材を受ける。

喜んだのもつかの間、億単位の資金を動かすデイトレーダーと混同されるようになり(たぶん同い年の「ジェイコム男」BNFさん)、女性からの交際申込みがやたら多くなる。人生で初めてのモテ期到来だが、お金目当てが見え見えで呆れかえった。(当時の私の運用資産は1,000万円程度だったのだが。)

  • 保険や金融商品の営業(記憶にない同級生現る!)
  • パトロン探しの音大生
  • 知人の携帯から電話してきたホステス

上記のような知人の知人を名乗る人々は、ほぼすべて門前払いすることに成功。
でも「この人の紹介なら」と仕方なく会ってしまった時は、初対面で腕にからまれ、胸を押しつけられるという恐怖体験。女性嫌いになり、生涯独身と思われたが…。

単なるお金儲けのためだけの投資は豊かな人生につながらない。数年後にこの時の経験をバフェットの言葉ともに振り返った記事がある。

2007年(29歳)

非上場会社の株式買取価格をめぐる裁判を経験する。
株式を発行会社に買い取られることになり、その売買価格が納得できず、裁判に持ち込んで企業価値評価の方法を争った。判決は当初会社側が提示してきた額の約20倍。投資をはじめていなければ、何も知らずに手放すところだった。

裁判終了後に私なりにまとめた意見書を以下の記事にまとめている。

会社の提示してきた価格があまりに低かったので、「そんな価格なら過半数の株を買い占めて私が経営する!」という姿勢で臨んだから、当時世間をにぎわしていたホリエモンや村上ファンドになぞらえて、法廷で「ハゲタカファンド」と罵られた。実際にこの頃から髪の毛がハゲタカのようになっていった(笑)

2008年(30歳)

その後の投資と人生の方向性を決めた本との出会いがあった。

前者の影響を受けて、キレイごとではなく、こんな素敵な会社があるのだから、株主として誇れる会社に投資したい、って想いが強くなる。これ以後の社会性を意識した私の投資行動については、某大学のゼミでお話しさせていただいたことがあり、記事にまとめている。

後者は1992年に出版されたベストセラーで、バブル崩壊が始まった当時、今こそ日本の伝統文化に潜む「清貧」の心に目を向けよ!と古典を引きながら、問題提起をした一冊。このとき特に心に響いた古典が兼好法師の「徒然草」。やがて日本文化へ傾倒していくきっかけとなった。

2009年秋頃(31歳)

リーマン・ショックが破綻した日により深く投資について学びたい!と思いつき、1ヶ月後には大学院を受験して合格してしまう。この年の秋、非常勤講師の河口真理子さん(大和総研)の期末課題で、8社のCSRレポート比較評価をしたのをきっかけに、自分の投資プロセスに織り込むことを思いつく。

長期投資のためには会計情報だけでは何かが足りず、坂本光司「日本でいちばん大切にしたい会社」に感銘を受け、定性的な投資分析の方法を探していたところだった。

これ以後、個人投資家として受ける取材はIR・CSR関係のものが多い。 代表例を紹介すると、

また大学院在籍時にアメリカ偏重の経営学に疑問を持ち、アメリカ建国以前から創業の日本の老舗企業を調べているうちに、日本文化に強い関心をいだくようになる。これ以後、日本の歴史・文化の研究がライフワークとなり、投資家として長期の視野を保つための手段でもある。

  • 2014年からAmazonで古典や日本文化についての電子書籍の出版を開始

2010年(32歳)

河口さんが私のブログの読者だったこともあり、大学院での講義終了後も交流が続き、河口さんが代表理事を務めるNPOの社会的責任投資フォーラム(現在の日本サステナブル投資フォーラム(以下「JSIF」))の活動に誘われる。

当初はウェブサイトの見直しのお手伝いだけの予定だったが、この団体が赤字続きで数年内に破綻必至の状況だったこと、私が中小企業の経営に関わる仕事をしていたことから、運営に関わる割合が徐々に増えていった。

2011年(33歳)

大学院で経営学を学んでみたものの、とくに経済・金融の分野を席巻していたファイナンス理論を中心に、学問は過去を必死に説明しているだけだった。未来学が存在し、何か創造的なことができると勘違いしていたことを痛感。

そして同時に投資についてこれ以上、語ることがないと実感し、ブログの方向転換を宣言する。

2012年(34歳)

東日本大震災から1年経過をしたのを機会に科学や哲学の側面から、偶然やリスクにまつわる書籍を読みあさった。 こういった分野の書籍が投資家として役に立つことに気がつき、以後、経済書(とくにビジネス書)はほとんど読まなくなっていく。

またこの年のブログの記事を振り返ると、年末に人生観が整いはじめ、翌年の決断につながっていることが分かる。

2013年(35歳)

2013年夏頃から2014年春頃にかけて仕事の整理をはじめる。

年間に受けとる株式の配当と債券の利子が大きくなってきたことから、「お金になるかどうかを気にせず、今後の人生が楽しくなりそうな選択をする!」という生き方に、より忠実に生きることを決意。給与収入は激減したが、時間の豊かさを手に入れることができた。

この一環として証券市場への恩返しの意味も込めて、財政再建が軌道に乗りかけていたJSIFの運営を全面的に引き受けた。2014年春からは事務局長に就任。2015年末に累積赤字を解消。

2014年(36歳)

人は1日3回、幸せになるチャンスがある!

という座右の銘を唱えながらも、この頃まで中学の家庭科の授業以来、料理は母に頼りきりで、包丁を持ったことのない人間だった。

前年の決断により、時間に余裕ができたことから、この年の11月、本格的な和食の料理教室「柳原料理教室」に入会。無鉄砲すぎる決断だったが、おかげであっという間に上達し、2~3年ですっかり料理はお手のもの。インスタで自慢げに料理を見せびらかしている。

統計上、まもなく生涯独身が確定するから、

ひとりになっても日々美味しい食事を楽しめるようにとはじめたのだが…。

2015年(37歳)

この年の1月末に交際ゼロ日で結婚を決めて9月に入籍。

創業間もない鎌倉投信の投資哲学が自分の考えに近かったことから、日本文化研究の鎌倉訪問ついでに投資の初心者を同社のセミナーへ引率。2011~2014年の間に数回実施した。

この日に引率したのが妻。もともと顔見知りだったが、この時の鎌倉訪問をきっかけに親しくなる。お互い食へのこだわりが異常という共通点から、1人では入りづらい食べログ高評価店の攻略に行こう!と月に1度、一緒に食事をするようになり、年内はその程度だったのだが…。年が明けて1月末には結婚を決めていた。

この決断の早さは投資に由来すると考えられ、

また「投資で早期リタイア!」という目標をかかげる個人投資家も多いが、完全な自由ではなく中途半端な自由を目指した方が、幸運に出会う可能性が広がるし、金銭的な不安も少ないのではないか。

2017年(39歳)

結婚後に一番驚いたことは、福岡に住む妻の母親が金融機関のカモにされていたこと。自宅に上がり込んできて投資信託を売りつける郵便局員、グループの銀行・証券が結託して仕組債を買わせる西日本フィナンシャルホールディングス。後者については極めて悪質なため、金融庁の金融モニタリング情報収集窓口へ報告したほどだ。

翌年2018年春頃から個人投資家として執筆や講演をさせていただく機会があり、その際には必ず金融庁の公表資料をもとに注意喚起を怠らないようにしている。

またこの年、ウェブ小説からアニメ化された「ソードアート・オンライン」に触れる。手が届きそうな近未来が描かれており、これはGPUのNVIDIAは世の中に不可欠な存在になると認識。以後、それまで控えていたIT企業へ積極的に投資をはじめる。

NVIDIAへの投資が成功したことで、アニメを見るのが習慣化。二匹目のドジョウを探し求めている。

2018年(40歳)

前年2017年の2月にギックリ腰で約1ヶ月間、歩けなくなる。その時に頼ったカイロプラクティックの先生に治療を受けながら、いろいろ話しているうちに、金融・経済の先生になって欲しいと頼まれる。この年の9月から医院の先生方とランチをご一緒しながら、質問攻めにされるのを楽しんでいる。またちょうど同じ頃からセミナーの講師や経済誌への寄稿の話も来るようになった。

ふと35歳の時に40代のうちに「この分野ならあの人!って存在に」なれたらいいなと書いたのを思い出し、

やはり21歳の頃から続けてきた投資の知識や経験が、私にとって一番の財産なのだ、ということをあらためて認識させていただいたのだった。

またこの年の年始に配当重視の投資について語っているが、

前年のソードアート・オンラインの一件以来、配当金を元手にした、いわゆるグロース株投資にスタイルが変わっていった。

2019年(41歳)

前年からの流れを引き継いで、顔見知りの投資に関心を持つ人を対象に、Slackを使って投資に関する情報提供をはじめる。iDeCoの始め方などの初歩的な話から、話題の企業の投資判断やその時々の相場観まで。日本にまっとうな投資家が増えるにはどうすれば?と私なりに考える中で書いた、以下の記事はうまくまとめられたように思う。

2020年(42歳)、2021年(43歳)

この年はなんと言ってもCOVID-19の襲来。
投資家人生3度目の暴落で、ようやくうまく立ち回ることができ、やっと投資家として一人前になれたかな?と実感することができた。

翌年に振りかえり、

純粋に投資そのものを学んだ期間は約8年。
そこから7~12年後のことだったことを確認している。

またCOVID-19の襲来がウイルスやDNAをはじめ生物学に関心を持つきっかけとなった。人間の好奇心は外部からの大きな衝撃をきっかけに立ち上がるものなのでは?と気がついた。これまで書き綴ってきた代表例を振り返ると、

  • 母にへそくりと株式投資の本を渡されて、投資をはじめる。(2000年)
  • 株式投資で失敗したのをきっかけに、会計や心理学を学ぶ。(2001年)
  • リーマン・ショックを機にもっと深く学びたいと大学院受験をする。(2008年)
  • MBAを取得したら、経営学よりも日本の歴史・文化を学ばなければならない切迫感を覚える。(2010年)
  • 東日本大震災を機に、善悪の境界や偶然、リスクをどう捉えるべきか?等々、哲学に関心を持つ。(2011年)

2022年(44歳)

ここで書いてきた内容をもとにしたポッドキャストを収録。rennyさんが「月次レポート研究所」の収録テーマとして取り上げてくださいました。(2022年5月収録)

  • 1998~2005年の話(Web発信や株式投資の第一歩、投資で失敗してから学んだこと、心の師匠は羽生善治さん)
  • 2006~2008年の話(雑誌出演と謎のモテ期、株価を争う裁判、古典への関心)
  • 2009~2010年の話(リーマンショック、日本文化への関心)
  • 2010~2014年の話(大学院で気が付いたこと、NPOへの関わり、料理への関心)
  • 2015~2020年の話(結婚のきっかけ、株式投資の普及や投資哲学)

この頃から投資家としての歩みをお話させていただく機会が増えたような気がする。JPXの投資教育のサイトにもインタビュー記事が掲載されたりもした(2024年1月)。