愛とは時間をムダにすること/辻信一「ナマケモノ教授のムダのてつがく」

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「タイパ」について学ぶための読書。一冊目は、
続いて読んだのは、文化人類学者が「ムダ」をテーマに書いた、
「タイパを重視する=ムダを省く」ということになる。「ムダ」とは一体なにか?と考えていくと、これまでの読書と繋がっていくことを認識させてくれた一冊だった。

不要不急と無用の用

COVID-19が蔓延し、緊急事態宣言が発せられた頃に連呼された「不要不急」。
平時のわたしたちは本当に必要なことか落ち着いて考えもせず、必要とされる存在にならなければとブルシット・ジョブに勤しんでいた。
「ブルシット・ジョブとは、被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、本人は、そうではないと取り繕わなければならないように感じている。」(デヴィッド・グレーバー「ブルシット・ジョブ」)
あのとき誰もがそもそも自分自身が「不要不急」の存在では?と感じていたから、グレーバーの本が注目を集めたのだろう。
「有の以って利を為すは、無の以って用を為せばなり」(老子 第十一章)
かたちの「有る」ものが便利に使われるのは、「無い」ところにこそ、本質的な働きが込められているからだ。
「人は皆有用の用を知るも、無用の用を知る莫きなり」(荘子 人間世編 第九章)
人はみな役立つことの価値は知っているが、無用に思えるものが真に役立つことだと分かる者はいない。
一体何が「不要不急」で、何が「無用の用」なのか。そもそもわからない。

ネガティブ・ケイパビリティ

ネガティブ・ケイパビリティとは、答えの出ない事態に耐える能力。
ムダのない世界は「帳尻合わせ」や「わかったつもり」まみれ。でも、人生の楽しさは、分かりそうで分からないことに出会い、それを考え続けることで変化を楽しむことにあるのではないか?
「なんとかわかりそうだけれどもわからないことが、一番楽しいんです。もう絶対無理という難題は、普通、あきらめてしまいます。でも、あと10分、20分頑張って考えればわかるんじゃないか、というところまで考えて、なおかつわからないということが楽しいんです。」(羽生善治「勝ち続ける力」)
分からない世界だからこそ、人の知性や決断に意味が生まれるのだ。

ムダは遊びの言い換え

利害、損得、義務、責任などからなる世間の枠組みから離れて、ムダで、無用で、不要で、役立たずとされてきた物事を抱きしめる。
それが「遊び」。
平安時代末期の流行歌を集めた「梁塵秘抄」にこんな歌がある。
遊びをせんとや生れけむ
戯れせんとや生まれけん
遊ぶ子供の声聞けば
我が身さへこそゆるがるれ
解釈はいろいろあるそうだが、「無邪気に遊ぶ子供の声に心動かされるのは、私たちが遊ぶために生まれてきたからではないか?」と語りかけているように思える。
私たちは「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)」なのである。
そして「道を極める」と「遊ぶ」はご近所さんだ。
遊戯三昧(ゆげざんまい)
損得など関係なく遊ぶように夢中になって楽しむ。だから遊び心の中にこそ無心があり、本質を見抜く力はそこに生まれるのかもしれない。

愛とは時間をムダにすること

時間をかけて努力をすれば必ず報われる。時間は限られているからムダにしたくない。その延長線に「タイパ」が求められる世界がある。
努力とは幸運に出会う確率を高めることにすぎない。かけた時間に見合った成功など得られるものではなく、費やした時間の半分以上がムダに終わるものだと思う。
しかし、報酬や見返り、成果を求めずに、ムダに時間をすごしたからこそ得られる大切なものがある。
「時間をムダにするとは、効率性、生産性、合目的性などの要請から自由に、自分の時間を生き、自分の人生を生きること。愛とは、それが何の役に立ち、何の得になるかにはかかわらず、惜しげなく相手のために時間を使うこと。愛はスローで、時間がかかる。だからときどき、面倒くさいこともある。でもだからこそ、愛は愛。」(P234)

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