生きてある日は今日ばかり、との死生観から、
「いつやるか? 今でしょ!」と徒然草で説いた兼好法師。
では私たちは何から手をつければいいのか?
「「道心あらば、住む所にしもよらじ。家にあり、人に交はるとも、後世を願はんに難かるべきかは」と言ふは、さらに、後世知らぬ人なり。げには、この世をはかなみ、必ず、生死を出でんと思はんに、何の興ありてか、朝夕、君に仕へ、家を願みる営みの勇ましからん。心は縁にひかれて移るものなれば、静かならでは、道は行じ難し。」(58段)
人の心は周りの環境によってうつろうものだから、
仏道を追求するなら、まずは心静かな環境を整えなさい。
「やる気さえあればどんな環境でも…」って精神論は間違え。
人の心は弱いから、まずは環境を整えることが大事なんだ。
やらねばならぬ環境を作って、追い込むくらいじゃないとね。
まぁ数寄者はそのあたりの動きで変人扱いされるのだけど。
「事・理もとより二つならず。外相もし背かざれば、内証必ず熟す。強いて不信を言ふべからず。仰ぎてこれを尊むべし。」(157段)
現象と真理は別々のものではない。
外面に現れた行為が道理に背かなければ、内面もついてくる。
心を良い方向に導く「形」を尊重しなさい。
「偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。」(85段)
賢人を真似て近づこうとする人は賢人と言うべきだから。
なにごともまずは「形」から。守破離の精神だ。
実質を伴わない形式だけ、単なる真似ごと…と批判されるだろう。
でも愚直に続けるうちに、自分だけの「形」になっていく。
やりたいことが決まっているなら、
- とにかくはじめる
- 集中できる環境を整える(形や真似からでもいい)
- そして続ける
人生の歯車は、こうやって回していくものだと私は思う。
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