年始に「中島みゆき 劇場版LIVEセレクション」を映画館で観て、
その流れでこんな本に出会った。
1980年と2022年に実施したお二方の対話が収録されている。
谷川さんが42年を経て、考え方が変わったことを話していて、
それが帯書きの「300年後に会いましょう」に繋がっていく。
「谷川俊太郎が描く中島みゆき」の章で記されている、
歌、音楽、詩についての一節に、ふと思い出させられること。
「歌はことばの隠している意味と感情を増幅する、あるいは誇張すると言ってもいいかもしれない。だがそうすることで、歌は私たちがふだんとらえ損なっていることばの意味と感情を新しくよみがえらせてくれる。メロディとリズムに支えられたひとりの生身の歌い手の声がそれを可能にするのだ。だから活字になった歌のことばは、ある意味ではぬけがらにすぎないと言えるかもしれない。」
私たち日本人は同じ言葉のまま千年以上さかのぼっても、
古典をなんとなく理解することができる幸運な民族。
でも百人一首に代表される和歌の音楽性は分からない。
たとえば後白河法皇が編纂した「梁塵秘抄」(1180年頃)。
今様と呼ばれる中世の流行歌を集めた歌集だが、
梁塵秘抄という言葉を現代語に意訳するなら、
妙なる歌の響きで梁(はり)の上に積もる塵(ちり)さえも動く
それほどまでに心を揺さぶる歌は、
どのように声に出して読むのが正しいのだろうか…
遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生まれけん
遊ぶ子供の声聞けば 我が身さへこそゆるがるれ
仏は常にいませども うつつならぬぞあはれなる
人の音せぬ暁に ほのかに夢に見えたまふ
ただ谷川さんの上記の文章はこう続く。
「しかしまた音楽と声の助けなしにことばを読むことで、私たちは歌の肉体だけでなく、骨格とでもいうべきものを知ることができる。特にそのことばが、歌い手自身によって書かれている場合には、ひとりの歌い手の心の中にわけいることさえできるのだ。ことばと音楽と声はひとつの歌のうちで、決して分解できぬものとして存在しているのだが、書物は音楽にあふれたスタジオやコンサートホールとはまた違った静けさに人を導く。そのような静けさのうちでしか聞くことのできない隠された声、それを詩と呼んでもいいのではないだろうか。」
歴史を辿っていくと、文字、そして印刷術と発明がされるたびに、
聴覚よりも視覚を重視する世の中への転換が起こり、
それとともに言葉から音や旋律が失われていったと捉えがち。
でも、黙読にも音読にはない別の良さがあるじゃないか、と説いている。
ものの見方を反転させてくれる、いい文章に出会えた。

コメント