若い世代にとっての読書の位置づけがよく分かる一冊だ。
(大学生を中心とした16~28歳への取材から考察した内容)
以前、映画の倍速視聴をテーマにした著者の本を読んだ時は、
予想の範囲内で「なるほどね、そうだよね」という内容だった。
- タイパはオタクに憧れる?/稲田豊史「映画を早送りで観る人たち」(24/03/10)
しかし今回の内容はかなり衝撃的だった。
「趣味が読書」は、妬みの対象となる時代になっていたのか…
2010年あたりから文章の経済的価値が劇的に下がっており、
その理由として著者は3点あげている。
- インターネットが文章を無料で提供し続けてきたから
- 文章より動画から情報を取りたいと考える人が増えてきたから
- 生成AIによって文章を作るコストが劇的に下がったから
それに伴い、私たちの生活における読書の優先順位も下がってきている。
社会全体が「読まなくても済む(動画やAIで代用できる)」方向へ進んだ結果、
あえて本を読むという行為には、以下のような「余裕」が必要な時代なのだ。
- 経済的余裕…本1冊の価格と動画サービスの月額利用料を比較する時代
- 時間的余裕…書店を散策して本を選ぶ時間は学生にも社会人にもない
- 精神的余裕…長い文章に意識を集中するには心のゆとりが必要
これらすべてを満たす人は、若い世代から見れば浮き世離れした貴族。
またリアル書店の存在意義として「意外な本との出合い」が主張されるが、
それについて大学生が漏らしたという言葉が象徴的だ。
「時間にすごく余裕があるんですね、その人。なんていうか、優雅。買おうと思ってなかった本を何冊も買うってことですよね? お金も時間もある人の趣味って感じ…」
いまや目的もなく書店内を眺め歩くというのは、
時間的な余裕はもちろん、近くに書店がある環境も含めて、
恵まれた境遇にある人間だけが楽しむことができる特権的行為なのだ。
最後に著者は読書の「ラテン語化」が進むと予測する。
印刷技術が普及する以前の中世のヨーロッパでは、
一部の貴族や学者階層だけがラテン語で本を読んでいた。
当時のように、本を手に取り、長い文章を最後まで読むことは、
一部の恵まれた人だけの特権的な営みへと変質していくと説く。
「いずれ紙の本を読むという行為は、特権性と階層意識を孕んだ、選ばれし者たちの古き良き嗜みとなる。これからの紙の本は、そういう人たちのために書かれる。そういう人のお眼鏡にかなう本しか買われないし、読まれないし、残らない。その小ぶりな市場に限っては、文章の地位が完璧に保障される。それは、いいことなのか、悪いことなのか。」
もちろん知性の獲得手段が文章から動画へと移行しているだけで、
どちらが知的なのか、優劣を争うような話ではない。
ただ、読書の重要性や本屋の存在意義を主張することは、
自分が置かれた恵まれた環境を顕示するような嫌味な行為であり、
若い世代から呆れられる世の中であることは頭に入れておきたい。


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