真の進歩は不条理な苦痛の減殺とともに/市井三郎「歴史の進歩とはなにか」

この記事は約4分で読めます。

人間の歴史が直線的・必然的に「進歩」を続けてきたし、
今後も続けていくだろう、という価値観は幻想なのではないか? 
そもそも進歩の基準や価値尺度が間違っているのでは?

そんな考察をした歴史哲学書、

が哲学書にしてはとても読みやすく、興味深かった。

株式投資における長期投資への信仰は、
人間社会が継続的に進歩していくことを前提としている。
だから投資を入口に世界を読み解こうと試みる私にとって、
進歩史観や時間論を検討することは不朽のテーマなのである。

いかにして進歩史観ができあがったのか?

本書の第一章から第四章で語られていることをまとめると、

  • ユダヤ・キリスト教が天地創造と終末を直線で結び、「過去→現在→未来」の直線的な時間感覚が生まれる。(古代社会の時間感覚は円環・循環的だった)
  • 市民革命による自由の獲得、産業革命による欧州の技術的優位の確立により、社会が段階的に発展するという思想が生まれる。
  • ダーウィンの進化論が人間社会の「進化」≒「進歩」の問題にまで拡張して適用されていった(社会ダーウィニズム)。

ただこれは西欧社会を中心の歴史観の中で成り立つ考えであり、
たとえば著者は「自由」の概念について疑問を呈する。

「近代ヨーロッパの資本主義体制下における「自由」とは、歴史的現実においてつぎのことを意味した。すなわち第一には、いわゆる「先進国」の内部においてさえ、強者が弱者を収奪しまた拘束しうる「自由」を現出したことである。第二にその「先進国」の対外関係において、さらに痛烈でむき出しなかたちで同じことが結果した。しかも、強者が弱者を収奪しまた拘束するというのは、人間関係や国際関係におけるあるべき「平等」とまっこうから背反する。あるべき普遍的「自由」とも背反することは、いうまでもないのである。」

つまり、少数の強者が「自由」を主張することで、
多数の弱者には、はなはだしい「自由」の減少がもたらされるパラドックス。
進歩史観の土台となる近代的諸概念(あるいは諸理念)である、
自由や多数決、寛容、人民主権には、すべて同じ問題がまとわりついている。
その達成度は他者との比較による相対的にしか評価できないのだ。

どうしてこうしたパラドックスが放置されたままになっているのか。
イギリスの哲学者G・E・ムーアが唱えた「自然主義的誤謬」をきっかけに、
人間社会の倫理的価値規範の探求をあきらめさせてしまったのが原点。

「「善」(goodness)とは何か、という問題は定義不可能である、とかれはいい、人間たちが何を現実に欲するかといった自然的事実から、「善」の定義が導びき出せる、などと考えることは原理的にまちがっている(つまり「自然主義的誤謬」を犯している)、とムーアは主張した。・・・倫理的価値規範そのものを探究しまた向上させること(つまり規範倫理学と呼ばれるもの)は、本当は学問の名に価いしない個人的ないとなみだとみなされ、その種のいとなみは各個人の自由にまかせればよい(倫理規準の自由放任)という考え方が強まったのである。」

本来は、人間のありのままな欲求・願望と、社会的存在としての理性的な要請とが、
可能なかぎり妥協しうるような理念の探究すべきだと、著者は言う。

では人間社会が真に「進歩」するために必要なのは何なのか?

「人間社会の規範倫理学は、「快」の総量をふやすことを指向するよりはむしろ、それぞれの時代に特有な典型的「苦」(痛)の量をへらす、という方向へ視座を逆転すべきではないのだろうか。」

「どのような人種の一員として生まれ、どのような文化パターンに鋳こまれて育つか、という次元のちがいからくる〝不条理な苦痛〟の不平等は、もし人類歴史(の総体)に真の進歩がなさるべきであるとすれば、第一に減殺されねばならない最大の問題であろう。」

ちょうど50年前に出版された本だが、古くささはまったく感じない。
それは残念ながら歴史が進歩していないことの証だろうか。

歴史の進歩とはなにか (岩波新書)
岩波書店
¥902(2024/04/20 12:50時点)

コメント