数年前のベストセラー、吉川浩満「理不尽な進化」が文庫化されていた。
以前は図書館で借りて読んだが、この機会に購入し、
マーカーで線を引いたり、付箋を付けたりしながら再読している。
チャールズ・ダーウィンの進化論から派生した、
ハーバード・スペンサーの社会進化論が出てきたあたりから、
自然淘汰や適者生存の概念が本質を離れてひとり歩きをはじめる。
- 時間とともに社会が進歩・革新し、経済が拡大していく
- 長期的には優れたもの、強いものが生き残る
「長期で株式を保有すれば必ず儲かる!」という信仰の前提となる考えは、
進化論の曲解から生まれているのでは? と気付かせてくれた一冊。
「自然淘汰は、弱肉強食でも優勝劣敗でもない。自然の世界で適者であるための条件は、生き延びて子孫を残すということだけだ。それを弱肉強食や優勝劣敗の掟で包み込むのは、自然淘汰の原理を人間の勝手な価値観(多くは時代の要請)とすりかえる誤りである。」
いわゆるビジネス書のほとんどが後付け解釈によって、
過去の勝者や敗者があらかじめ決まっていたかのように語る。
そしてそれを自然淘汰や適者生存の曲解と組み合わせて、
未来にも当てはまる法則なのだ、と語っていることが多くないだろうか?
本来の進化論とは下記のようなものであり、
- 自然淘汰は弱肉強食でも優勝劣敗でもない
- 強い者が生き残るのではなく、適応した者が生き残る
- 適応した者とは結果として生き残り、子孫を残す者のことである
- 適応の度合いは個体が残した(あるいは残すと予想される)子孫の数によってのみ定義される
他の分野でおかしな応用がされていないか注意したいものだ。
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