踊り念仏で鎌倉時代の日本を遊行した時宗の開祖、一遍。
久しぶりに「一遍上人語録」を読み直している。
念仏の心がまえを問われた一遍は、
「南無阿弥陀仏と申す外、さらに用心もなく、此外に又示すべき安心もなし。諸の智者達の様々に立ておかるゝ法要どもの侍るも、皆諸惑に対したる仮初めの要文なり。されば、念仏の行者は、かやうの事をも打ち捨てて、念仏すべし。」
南無阿弥陀仏と唱える以外に、心がまえなんてない。
有識者が説いている教えも、所詮かりそめのものにすぎない。
念仏について考える暇があったら、ただひたすら唱える方がいい。
仏教に限らず、多くの古典で訴えられ続けていることのひとつは、
「いつやるか? 今でしょ!」なのである。
胸のうちに決めたものがあるなら、心がまえだのを問うて、
形から入ろうと格好を付ける暇があるなら、
何も考えずに今すぐにやれ!ということ。
「念仏の行者は智恵をも愚癡をも捨て、善悪の境界をもすて、貴賤高下の道理をもすて、地獄をおそるゝ心をもすて、一切の事をすてゝ申す念仏こそ、弥陀超世の本願にはかなひ候へ。」
一遍は智恵も愚痴も、善悪の境界も、貴賤高下の区別も捨て、
地獄を恐れる心も、極楽を願う心も、悟りもすべて捨てろと説く。
それが阿弥陀仏の本願にもっともかなうのだと。
知恵が付くと「たられば」思考で自分を見失い、
愚痴は怒りと同じで無知や傲慢の象徴と言えるし、
善悪の境界を引いたところでロクなことにならない。
迷いかけたら、とにかく捨てて、思うがままに進め!
「かやうに打ちあげ打ちあげとなふれば、仏もなく我もなく、まして此内に兎角の道理もなし。善悪の境界皆浄土なり。外に求むべからず、厭ふべからず。よろづ生きとしいけるもの、山河草木、ふく風たつ浪の音までも、念仏ならずといふことなし。人ばかり超世の願に預るにあらず。」
すべてを捨てて念仏を唱えていれば、仏と私の区別をはじめ、
どんな区別もなくなっていく。善悪どちらにも浄土はあるのだ。
生きとし生けるものをはじめ、世の中すべてのものが念仏であり、
人間だけが阿弥陀仏の本願の恩恵を受けているわけではない。
「ただ愚なる者の心に立ちかへりて念仏したまふべし。南無阿弥陀仏」
頭がすっからかんになるまで、南無阿弥陀仏と叫べはいいのだ。
その場に座するか(禅)、念仏を唱えて踊るか(一遍)、
とにかく頭を空っぽにできるなら、方法はなんでもいいのだ。
仏教を離れて、より身近な話に置き換えるなら、
時間も忘れ、夢中になって遊べるものを探し続けること。
それが人生で大切なことのひとつ、ということだろう。
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