昨年末に國分功一郎「暇と退屈の倫理学」を読み返し、
自分なりの贅沢の定義を以下のようにまとめてみた。
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贅沢は日常の暮らしのなかにこそあるべき
- 日々の食事を大切にすることが贅沢であり(料理の意義)、
- がんばったご褒美に!という背伸びは非日常は贅沢ではない。
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富の増加は必ずしも贅沢にはつながらない
- 「足るを知る」ことが何より大切
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贅沢は豊かな時間の使い方に宿る
そんなこともあり、ふと気になったのが、山田登世子「贅沢の条件」。
著者の示している贅沢の条件をざっと書き出すと、
- 閑暇を愛する精神(ゆったりと流れる時に身をゆだねる)
- 子どものように無垢な心でやりたいことに夢中になる
- 良き趣味を磨か「ねばならない」というような窮屈さがない
- 情報化できず、金で買うこともできない(職人の技)
といったとこだろうか。
著者の贅沢を考察する原点は、ココ・シャネルの思想にある。
- 宝石を見せびらかすのは「首のまわりに小切手をぶらさげる」ようなもの
- 贅沢な服とは、仕立てが良くて長持ちする服
「金目のもの(=見せかけの美)」と「エレガンス(=贅沢)」の分離。
CHANELというと今は高級ブランドだが、創業者であるココ・シャネルは、
少女時代を修道院で過ごしたことも背景にあるのか、
金目のものをひけらかし、飾り立てるのは単なる成金趣味という考えだった。
贅沢は金で買うことはできない。著者が着目したのは「時間の贅沢」。
そこから、私たちの歴史や伝統への渇望に目を向ける。
過去の面影を残す風景や、由緒ある建物、あじわいのある骨董品など、
古いものはなぜ新しいものより価値があるのか?
この問いの答えとして、今村仁司の「社会性の哲学」に着目し、引用している。
「骨董論は古さと伝統の存在理由を理解するのに役立つ。古いもの(過去性、歴史性)への執着こそ、人間を人間的にするものであった。人間は一般に「現在あるがままにある」ことだけでけっして満足しない。現在の存在が歴史性によって支持されてはじめて満足する。人は自分が古さによって認知されることを欲する。人は自己にかかわるすべての事柄に対して、その歴史的由来を他者たちと競り合う。」
「古さや伝統の観念は、神話的なもの、聖なるもののほうにも向かう。」
お金はもちろん時間すらも届かない「はるかなもの」にこそ贅沢があるのではないか。
著者は最後に「あなたにとってラグジュアリーとは何ですか?」と問われたなら、
「贅沢、それは静寂の夜を濡らす月の光だと。」
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