芥川龍之介の人生論「侏儒の言葉」

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芥川龍之介侏儒の言葉」。

石黒圭「読む技術」で引用されていて興味を持った。
ラ・ロシュフコー「箴言集」に似た味わいだ。

題名の「侏儒(しゅじゅ)」の意味を大辞林を引くと、

  • こびと。一寸法師。
  • 見識のない人をののしっていう語

一寸法師に代表されるように、日本の昔話には、
主人公が異常に小さく産まれて後に大出世、という型があり、
その源流は子男神スクナヒコナ神話にあるとされる。

善し悪し両方に受け取れる、実に謎めいた題名だ。

「文章の中にある言葉は辞書の中にある時よりも美しさを加えていなければならぬ。」

といった作家らしい言葉をもちろん、
人生訓も散見されるため、いくつか書き留めておこう。

芥川龍之介の人生論

人生は落丁の多い書物

「人生は落丁の多い書物に似ている。一部を成すとは称し難い。しかしとにかく一部を成している。」

ふと思い出すのは「努力」の意味合いについて。

世間では努力の先に成功が待っていると言うけれど、
努力と成功は正比例の関係になく、努力の大部分は無駄に終わる。
でも努力のどの部分が無駄か有益かを判断することはできず、
思いがけないある一部分の努力が人生を形づくったりするもの。

だから努力とは幸運に出会う確率を高めることだと思う。

道徳・常識・正義は信頼に値しない

「道徳の与えたる恩恵は時間と労力との節約である。道徳の与える損害は完全なる良心の麻痺である。」

「危険思想とは常識を実行に移そうとする思想である。」

わたしたちが道徳や常識を振りかざすとき、
それは古い考えに固執しているだけともいえる。
そしてそれを押し通すために暴力に訴えることもある。

さらには自分の間違えを認めたくないために、
怪しげな思想に染まってしまうことさえある。

「神秘主義は文明の為に衰退し去るものではない。むしろ文明は神秘主義に長足の進歩を与えるものである。」

わたしたち自身が生み出した技術に対して、
時代遅れの存在になることの懸念は今も昔も同じだ。

オマケで正義についても次のようにバッサリ。

「正義は武器に似たものである。武器は金を出しさえすれば、敵にも味方にも買われるであろう。正義も理屈をつけさえすれば、敵にも味方にも買われるものである。」

人生はいろは歌

「我々の生活に欠くべからざる思想はあるいは「いろは」短歌に尽きているかも知れない。」

いろは歌をあらためて鑑賞してみよう。

色は匂へど 散りぬるを

我が世誰ぞ 常ならむ

有為の奥山 今日こえて

浅き夢見じ 酔ひもせず

(匂うがごとく花は咲きほこるけれども、すべて散ってしまうものではないか。このわれわれの世界において、いったい何が、誰が常であろうか。常なるものは何ひとつない。だから私は、無常なこの世を奥山の方へこえてゆこう。こちら側の世で浅い夢なんか見ていないで、酔っぱらってなんかいないで。)

  • はかない夢のような世界へのあきらめを描いた1,2段目
  • それでも前へ進もうとする決意を描いた3,4段目

地震、火山、台風などなど、幾度となく自然災害に襲われ、
それでも立ち上がり続けた、日本人の精神がつまっている。

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