「数寄」が気になり、茶人の言葉を探ったことがあった。→該当記事
その後も調べていると、鎌倉時代の古典で「数寄」に出会うことが多い。
東日本大震災後、「方丈記」が災害記録として注目された鴨長明。
そういえば長明は「幽玄」についても、優れた定義付けを残していた。
「数寄」については「発心集」のなかでこう語る。
「数寄というは、人の交はりを好まず、身のしづめるをも愁へず、花の咲き散るをあはれみ、月の出入りを思ふにつけて、常に心を澄まして、世の濁りに染まぬを事とすれば、おのづから生滅のことわりも顕はれ、名利の余執つきぬべし。これ、出離解脱の門出に侍るべし。」
人との交わりを避け、落ちぶれようと愁うことなく、花や月に心を寄せて、
常に澄んだ心をもって、世俗にとらわれない生き方を「数寄」という。
そうすれば無常を知り、執着もなくなり、煩悩から解放されるだろう。
長明とほぼ同じ定義付けが、同時代の雅楽論にも登場する。
「数寄者といふは、慈悲のありて、常に物のあはれを知りて、あけくれ心を澄まして、花を見、月をながめても、嘆きあかし、思ひくらして、この世をいとひ、仏にならむと思ふべきなり。」(狛近真「教訓抄」)
鎌倉時代の「数寄」は出家や遁世と密接に関わる言葉だったのだ。
その昔「35歳で隠居」と宣言した。そしてその時が徐々に近づいてくる。
「まぎるる方なく、ただひとりあるのみこそよけれ。世に従へば、心、外の塵に奪はれて惑ひやすく、人に交われば、言葉、よその聞きにしたがひて、さながら、心にあらず。・・・縁を離れて身を閑かにし、事にあづからずして心を安くせんこそ、しばらく楽しぶとも言ひつべけれ。」(徒然草・75段)
心を乱される出会いがあり、迷いが生じたこともあった。
でもやっぱり、世に交わらず、心静かに生きることが魅力的に思える。
兼好法師の言いまわしで言うと、こうした生き方こそ「あらまほし」。
でもどうだろう…。
出家や遁世に関わる言葉だった「数寄」は、やがて茶道の言葉と変わる。
もてなしの心やひとときの出会い「一期一会」を大切にする茶道へと。
まだ見落としている何かがあるような気がする。。。
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