大衆に埋没しない生き方のヒント/オルテガ「大衆の反逆」

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1922年にイタリアでムッソリーニ、33年にドイツでヒトラーが政権を取る、
その間の1930年に発表されたオルテガ・イ・ガセット「大衆の反逆」。
NHK「100分de名著」で取り上げられていたのを機に読み返している。

オルテガの言う「大衆」の定義をこれまでもたびたび引用してきたが、

「大衆とは良い意味でも悪い意味でも、自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分はすべての人と同じであると感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、他の人々と同一であると感ずることに喜びを見出しているすべての人のことである。」

独裁者の圧政から人々を解放した民主主義。
しかしその多数決の原理により「数」がものを言う時代が訪れたことで、
なんの美学や道徳律も持たない「大衆」を生み出したのではないか?

こうしたオルテガの危惧は当時の時代背景ならでは、といったものではなく、
また政治の世界に限った話というものでもない。  

あらゆる「知」を解放する装置として期待されたインターネット。
しかしFacebook等のSNSの登場あたりから偏重をきたし、
「大衆」を解体するどころか、量産する方向へ進んでしまっている。

そして大衆が支持するものが正義といった雰囲気に、
「質」を追求するごく一部の人たちが隅に追いやられていく…。

「大衆はいまや、いっさいの非凡なるもの、傑出せるもの、個性的なるもの、特殊な才能をもった選ばれたものを席巻しつつある。すべての人と同じでない者、すべての人と同じ考え方をしない者は閉め出される危険にさらされているのである。」

半隠居生活が板につき、落ち着いて考えられるせいか、
いろいろな分野で上記のような局面に気がつくことがあり、
世の中ってそんなものなのかな、と首をひねってしまう。

過去に真実であったことが、現在・未来にも当てはまると信じ、
自分の内側になんの美学や哲学も持たずに一方向に進んでしまう。
自分の頭で考えて、寄り道や回り道をしながら進んだ方が、
思わぬ幸運にめぐり逢い、個々の人生がより豊かになるはずなのに。

「近代文化への信仰は悲しく淋しい信仰であった。それは、明日もその全本質において今日と同じであることを知ることであり、進歩というものは、すでに自分の足下にある一本道を永遠に歩み続けることにのみあるのだということを知ることであった。こうした道は、むしろ、どこまでいっても出口のない永遠に続く牢獄のようなものである。」

もちろんオルテガは過去に学ぶことを否定しているのではなく、
こんな比喩表現で大衆に埋没しない生き方を提言している。

「あなたが自分の時代を完全に眺めたいと思われるなら,遠くから眺めることをおすすめする。それでは、どのくらいの距離から眺めたらいいのかとおききになるであろう。答えはきわめて簡単である。あなたの目にクレオパトラの鼻が見えなくなるだけの距離からである。」

一言でまとめるなら「大局観」が大事ということになるだろうか。

オルテガ自身は自らの時代に起きた特異な出来事と認識していたようだが、

「今日の状況の中で、社会的な生における知的凡庸さの支配ほど、過去のいかなる事件とも同一視することのできない新事態はないのではなかろうか。」

いつの時代にも当てはまる論考であることは明らかだから、
不朽の名著として今後も読まれ続けるのだろう。

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