マルクス・アウレリウス「自省録」の背景

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ローマ皇帝、マルクス・アウレリウスの手記「自省録」が、
NHK「100分de名著」の今月の1冊ということで再読した。

自省録のことば

「一つ一つの行動を一生の最後のもののごとくおこない、あらゆるでたらめや、理性の命ずることに対する熱情的な嫌悪など捨て去り、またすべての偽善や、利己心や自己の分に対する不満を捨て去ればよい。見よ、平安な敬虔な生涯を送るために克服する必要のあるものはいかに少ないことか。」(2巻-5)

「名誉について。彼らの精神を見よ、それがどんなものであるか、どんなものを避け、どんなものを追い求めるか。あたかも砂丘がつぎからつぎへと上にかぶさってきて、前の者を覆い隠してしまうように、人生においても初めのものは後からくるものにまもなく覆い隠されてしまうことを考えよ。」(7巻-34)

「君が善事をなし、他人が君のおかげで善い思いをしたときに、なぜ君は馬鹿者どものごとく、そのほかにまだ第三のものを求め、善いことをしたという評判や、その報酬を受けたいなどと考えるのか。」(8巻-73)

「人生のおける救いとは、一つ一つのものを徹底的に見きわめ、それ自体なんであるか、その素材はなにか、その原因はなにか、を検討するにある。心の底から正しいことをなし、真実を語るにある。残るは一つの善事を他の善事につぎつぎとつないでいき、その間にいささかのすき間もないようにして人生を楽しむ以外になにがあろうか。」(12巻-29)

ハドリアヌスとアントニヌス・ピウス

ローマ帝国・五賢帝と称されるの5人の皇帝は、

  1. ネルウァ
  2. トラヤヌス
  3. ハドリアヌス
  4. アントニヌス・ピウス
  5. マルクス・アウレリウス

という順に即位する。

そしてハドリアヌスがアントニヌスを後継指名するにあたり、
マルクス・アウレリウスを養子にすることを条件としたことが、
後に「自省録」が書き記される原点となる。

経済のために領土を捨てたハドリアヌス

ハドリアヌスの治世で一番興味深いのは領土を放棄したことかな。

前帝トラヤヌスの時代がローマ帝国の領土最大期だったが、
国境線が大きく広がったことで防衛費がかさみ、財政を圧迫したため、
反乱が絶えなかったアルメニア、メソポタミア、アッシリアを放棄。

もちろん民衆や軍部からは反発されたが、財政再建に成功した。
領土の大きさがそのまま権威につながる時代にこの選択。
賢帝と称されるにふさわしい決断だったといえる。

ちなみに「テルマエ・ロマエ」の時代設定はハドリアヌスの治世。

「自省録」が語るアントニヌス・ピウス

マルクス・アウレリウスの前帝にあたるアントニヌス・ピウス。
治世は23年と五賢帝の中で最も長いが、特筆すべき歴史がない。

だが帝位を譲った時、国庫には過去最高額の資産が遺されていたという。
経済的な側面から歴史を見るなら、賢帝のなかの賢帝と言えるだろう。

またその人柄についての記述が「自省録」(1巻-16)に残されている。

「彼は粗暴なところも、厚顔なところも、烈しいところもなく、いわゆる「汗みどろ」の状態になることもなかった。彼の行動はすべて一つ一つ別々に、いわば暇にまかせてというように、静かに、秩序正しく、力強く、終始一貫して考慮された。」

「特筆すべきは、たとえば雄弁とか、法律、倫理、その他の事柄に関する知識など、なにかの点で特別な才能を持った人びとに対しては、妬みもせずにゆずったこと。それのみか彼らを熱心に後援して、それぞれがその独特の優れた点に応じて名誉をうるように計らったのであった。」

書くことで心を整えたマルクス・アウレリウス

マルクス・アウレリウスの治世になった頃、
地球規模の寒冷化の影響で、北方民族が南方へ移住をはじめる。

ローマは南下してきたゲルマン民族との戦いがはじまり、
その陣中で書き綴られたのが「自省録」とされている。

当時のローマは疫病も流行しており、
次々と降りかかる困難に立ち向かう、心の強さを維持するために、
書くことで心を整えようとしていたのかもしれない。

ただそんな哲人皇帝も後継者選びに失敗。
ローマ帝国史上最悪の皇帝と称される息子を指名してしまう。

賢帝の時代と「パックス・ロマーナ」を終わらせてしまったにも関わらず、
マルクス・アウレリウスが賢帝に名を連ねることができるのは、
この「自省録」が遺されていたおかげなのかもしれない。

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