今月のNHK「100分de名著」は道元の「正法眼蔵」。
この番組でも「哲学書」として紹介されていたけど、
「時」を哲学した書物としては世界最古と言えるかもしれない。
※一般的には時を論じた哲学者といえば20世紀のハイデガー
時の思想の三分類
古代より哲学・宗教思想の時間の捉え方はおおよそ3通り。
- 円を描く
- 線上を流れる
- 点の集まり
おそらく最も最初に現れるのは循環的な時間世界。
ギリシア・ローマ時代の様々な文献にその考えが現れているし、
仏教的な輪廻転生の考え方もまた時の流れは円を描いている。
直線的な時間世界はユダヤ・キリスト教がはじめだろうか。
天地創造から終末に向かって過去・現在・未来と直線的に進んでいく。
後に直線的な時間論は変質したダーウィンの進化論と手を結ぶ。
社会が時間とともに進歩・革新し高次元の社会へ移行する、
という現代の資本主義の根幹に直線的な時間世界がある。
そして時間を点で捉えて論じたのが道元。
原始仏教では現在のみが存在する時であり、過去も未来もないとする
「過未無体(かみむたい)」という考え方があり、
それに道元が詳細な解説をつけた、というところに特徴がある。
正法眼蔵・有時の章
以前は「現成公案」の章を使って簡単にまとめていたけど、
今日はもう少し踏み込んで「有時」の章から切り取ってみる。
「いわゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり。」
道元にとって「有る時」は、
時間の流れの中のある一点を切り取った「或る時」を指すのではない。
すでに時が存在そのものであり、存在するものはすべて時だと言う。
「われを排列しておきて尽界とせり。・・・自己の時なる道理、それかくのごとし。」
私たちは自分が主体的に意味づけすることによって世界を認識する。
だから自分自身が時そのものではないかと道元は説く。
「時もし去来の相にあらずは、上山の時は有時の而今なり。時もし去来の相を保任せば、われに有時の而今ある。」
時が流れるもの(去来の相)かどうかに関わらず、
「有る時」とは、今この時の「而今(ここん)」のことだ。
自分が主体的に把握することによって現れるのが「有時の而今」。
以上の道元の時間論をごく簡単にまとめるなら、
- 時は自分の外側を流れるものではなく内側に存在するもの
- 自分が「今」と認識してはじめて時が現れる
といったところだろうか。
そして道元にとって「有時の而今」とは悟りのことだろう。
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