「セレンディピティ」という言葉の持つ意味が、人生の本質を突いているように思えた。
しかしカタカナ語をこれ見よがしに振りかざす人間ほど信用できないものはない。
他の人々に理解しにくい言葉を使うことで、優越感に浸っているだけだから。
ならば「セレンディピティ」をいかに説明すべきか?
- 何かを探している時に探していたもの以上の発見してしまう。そんなふとした偶然や幸運を自分に引き寄せる能力。
- やってくる偶然とむかえにいく偶然が出会った時に起きる幸運とそれに気が付く能力。
これまでだいたいこの2通りの説明をしてきたが、一言で表す言葉が欲しかった。
それは「めぐり逢う」という言葉なのではないだろうか?
まず白川静の「常用字解」で「会う」と「逢う」の違いを調べると、
- 会…もとの字「會」は、鍋に蓋をして煮ている形を表す。
- 逢…「夆」は神が下り憑りつく木を表す。逢うは神異なものにあうこと。
出会いは作るものだ、とよく言われる。
たしかに「会う」は鍋パーティーのようなもので、自ら機会を作ることができる。
しかし「逢う」は不思議な巡り合わせでふいに眼の前に現れるもの。
それがいつ訪れるかは、神のみぞ知る、といったところだろうか。
私たちが神社でお参りする感覚に近いかもしれない。
神社は神が常駐する場ではなく、神がときおり訪れる仮の宿。
私たちは神様がいるかもしれない可能性にかけて願い事をしている。
難波がた 短き葦の ふしの間も
逢はでこの世を すぐしてよとや
あらざらむ この世のほかの 思ひ出に
今ひとたびの 逢ふこともがな
いずれも百人一首で有名な和歌(伊勢・和泉式部)。
わずかな可能性にかけた、祈るような想いが歌われている。
書籍によってはひらがなで「あはで」「あふ」となっているが、
漢字を当てるなら「会」ではなく「逢」。「めぐり逢い」なのである。
そしてめぐり逢うために大切なのは「待つ」こと。
来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに
焼くやもしほの 身もこがれつつ
待ってもあなたは来てくれなかったけど、
いつも私はあなたを想い、恋いこがれています。
と詠んだ、百人一首の選者、藤原定家が自選した一首。
つまり「会う」が出会ったその「瞬間」を表す言葉なら、
「逢う」はめぐり逢うまでに待ち続けた「時間」を表している。
以上のような背景から「セレンディピティ」とは「めぐり逢う」こと
最後に、こうして綴っていて、言葉を大切にするというのはこういうことなのだと。
こうして書き続けているからこそ、それに気づくことができるのだと。
そんな気付きとともに、2019年のブログのはじまり、はじまり。
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