「一揆」と聞くとファミコン世代の私は、
サンソフト(現在はサン電子)のゲーム「いっき」を思い出す。
農民が悪代官の屋敷に殴り込みをかけに行くゲーム。
奇妙だったのが初期武器は鎌で遠距離攻撃が可能なのだが、
鎌より強いはずの竹槍を手にすると、近距離攻撃しかできない。
鎌ではなく竹槍を手にすると弱くなる…。
そんなシステムゆえに「クソゲー」とも称されたが、
実は一揆の本質をついたものだった!ということを
呉座勇一「一揆の原理」を読んでいて気が付き笑った。
竹槍を持った暴力的な一揆は明治初期の一時期のみ
ゲーム「いっき」のせいではないが、
一揆には竹槍を持った百姓が悪代官と戦うイメージを持っていた。
しかし著者によるとその暴力的なイメージは、研究者の幻想だと言う。
「現実の一揆は常に権力と戦っていたわけではない。冷たい言い方をすれば、前近代の一揆が「階級闘争」であるという主張は、事実に基づくものではなく、戦後の日本史研究者の願望によるものである。つまりそう信じたかったというだけの話なのである。本当は暴動や革命より、むしろ「人のつながり」の一つのパターンと見た方が、一揆の実態に近いのだ。」
江戸時代に発生した百姓一揆は約3,710件のうち、
竹槍で役人を殺害した事例は1件しか発生していない。
現在の作られたイメージは、江戸時代の百姓一揆とは無関係で、
明治初期の新政府反対一揆が竹槍で武装したことに由来する。
竹槍一揆沈静化後は民衆の反政府運動は自由民権運動へ移行し、
民権家が竹槍一揆を「古代野蛮の風習」として否定的に捉え、
暴力ではなく平和的な自由民権運動の優位性を説いた。
この頃から竹槍が百姓一揆のシンボルのように扱われはじめたのだ。
百姓一揆は非暴力の交渉戦術
そもそも百姓一揆で手にする武器は鍬や鎌などの農耕具のみ。
以前も紹介したとおり、百姓でも鉄砲を持っている者が多く、
お祭りの射的ゲームは本物の鉄砲が使われていたほど。
ではなぜ一揆の際に百姓が刀や鉄砲を持ち出さなかったのか?
それには一揆側の巧妙な戦略があった。
秀吉の刀狩り以降、百姓の武装解除が行われたように思われているが、
百姓の帯刀を免許制とし、帯刀の有無によって侍と百姓を区別することが目的。
つまり武装解除ではなく身分統制が目的だったのだ。
著者は百姓一揆側はこれを逆手に取って、
「鎌や鍬を使っても鉄砲や弓矢を使わないことは、自分たちが百姓身分を逸脱していないということを幕府や藩に示すアピールだったと思われる」
つまり社会変革を目指す武装蜂起ではないことを示した上で、
「彼らが百姓であることをやめない以上、藩は為政者として、彼らの訴えを聞き届ける義務がある」
という当時の「仁政イデオロギー」に訴えたのが江戸時代の百姓一揆だった。
つまり百姓一揆が農耕具以外の殺傷を目的とした武器、
ゲーム「いっき」で言うところの竹槍を手にした時点で、
島原の乱と同列の武装蜂起とみなし、徹底的に鎮圧される。
百姓が竹槍を持つとお上への交渉力が弱くなるという
「いっき」の仕組みは図らずも一揆の本質をついていたのだ。
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