食が情報として消費される世の中への嘆き/柏井壽「グルメぎらい」

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「美味しいものを食べること」と「グルメ」という言葉の間に、

奇妙な溝が広がり、その原因を検証した一冊がおもしろい。

著者が嫌うグルメとは、美味しい料理を味わいたいわけではなく、

予約困難な店を訪問して、SNSで自慢したいだけの輩を指している。

グルメ自慢が増えたことによる弊害

とくに京都の割烹店が自慢のネタになるため、予約が殺到して常に満席。

それに合わせて値段にバブルが起きていると指摘している。

具体例として、京都を代表する割烹店の15年前との値段を比較して、

  • 草喰なかひがし…(昼)4,000円→6,000円
  • 祇園さ々木…(夜)13,000円→24,000円

このように大きく値上げをした料理屋がある一方で、

茶懐石の出張料理「辻留」の弁当は5,000円のまま変わらず。

食材価格の高騰だけでは説明できないのではと。

私も今春、京都と奈良を同時に旅して、食べ比べてみて、

奈良での食事が割安に感じたので、著者の指摘は正しいと思う。

実は私自身も今春の旅で深く反省したことだが、

旅先では財布の紐が緩んでしまい、晩御飯で高いものを食べてしまう。

でも東京で同じ金額払えば、もっと美味しいものが食べられないか? 

ひけらかしのための食バブルに散財させられては投資家の恥だ。

割烹店の本来の醍醐味とは

割烹店はカウンターをはさんで調理風景を見られるのが醍醐味。

そう思っていたが、本来の醍醐味はそこではないのだと言う。

客の嗜好に合わせて、当意即妙に調理することこそが割烹料理の真骨頂。

「たとえば一尺ほどもあろうかという立派な明石鯛があったとしましょう。まな板に載せられたこれを見たお客さんは、何をおいてもまずは造りに、と所望します。料理人が応えて日く、平造りか、それとも薄造りにするか、山葵醤油か、ポン酢か。お客さんは自分の好みを伝え、料理人は鯛をさばき始めます。」

このように料理人とお客さんが一体となって料理を進めるのが、

割烹店本来の醍醐味であり、その先駆者が祇園にあった「浜作」。

昔を知る著者にしてみれば、「おまかせ」一本の今の割烹店は、

「お仕着せ」にしか見えず、料理人の腕が落ちるのでは?と危惧する。

また今の形では、お客の側にも調理の知識向上が期待できず、

料理ができない客が料理屋を口コミ評価するなど馬鹿げていると怒る。

たしかに旬の食材の知識は得られるが、自分の料理には生かせない。

でもそれは値段の高騰に応じて、食材も贅を尽くしたものになり、

家庭では手に入らない食材を調理していることも原因だと思う。

それはともかく、料理をとことん味わうためには、

自らの日々の料理も精進を重ねることが大切なのだ。

そしていま一度、北大路魯山人が残した言葉の重みを感じるのだった。

「手のこみ入ったものほどいい料理だと思ってはいないか。高価なものほど、上等だと思っていないか。」

「私たちの考えていますことは、日常料理の美化であります。ふだんの家庭の日々の料理を、いかに美しくしてゆくかということであります。」

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