「成功の法則」といった安っぽいタイトルの本を読むくらいなら、
能の魅力を「花」に例えた世阿弥の能楽論「風姿花伝」。
舞台を成功させるための「まことの花」を追いかけて、
年齢別の稽古論を説いてみたものの(年来稽古条々)、
それでも舞台の成功が保証できないのはなぜなのか?
その原因を研究し続けた思索が「風姿花伝」に残っている。
「秘義に曰く、そもそも、一切は、陰陽の和する所の境を、成就とは知るべし。・・・陽気の時分に陰気を生ずる事、陰陽和する心なり。これ、能のよく出て来る成就の始めなり。」(風姿花伝第三・問答条々)
当初は陰陽道に精通し、場が「陽」ならば「陰」の能を演じることが、
成功の第一歩であると、若干占いめいたことを語っている。
でも書き進めるうちに、世阿弥の考えは次第に編集されていく。
「よき能の上手のせん事、なにとてて出で来ぬやらんと工夫するに、もし、時分の陰陽の和せぬ所か。または花の公案なきゆえか。なほ残れり。」(花伝第六・花修)
よき能を上手が演じても成功しないのはなぜなのか?
陰陽の問題か? 花の咲かせる工夫に問題があったのか?
ここで舞台の成功と「花」とが出会い、陰陽を離れて花を語り出す。
「時分の花、声の花、幽玄の花、かやうの条々は、人の目にも見えたれども、そのわざより出で来る花なれば、咲く花のごとくなれば、またやがて散る時分あり。・・・ただ、まことの花は、咲く道理も散る道理も、心のままなるべし。」(風姿花伝第三・問答条々)
- その時限りの魅力…時分の花、声の花、幽玄の花
- 決して散ることのない魅力…まことの花
しかし舞台を成功に導く「まことの花」とは一体なんなのか?
これについては、花伝第七・別紙口伝に様々な記述がある。
- 花と、面白きと、めづらしきと、これ三つは同じ心なり。
- 物数を尽くして、工夫を得て、めづらしき感を心得るが花なり。
- 秘すれば花なり。秘せずは花なるべからずとなり。
そしてこの要点をまとめた一文として別紙口伝の最終章で、
「この道を極め終りて見れば、花とて別にはなきものなり。奥義を極めて、よろづにめづらしき理をわれと知るならでは花はあるべからず。」
多数の演目を習得し、演習を工夫し続けて、常に新鮮さを保つ。
そしてあえて隠すことで、受け手の想像力にまかせることも大事。
そうすることで、すべてが限りあるこの世界に無限の美を演出する。
これこそが成功を手にするための「まことの花」だと世阿弥は説く。
それでも運・不運はつきもの。
そんな想いを込めたのか、別紙口伝はこんな言葉で締められる。
「本来よりよき・悪しきとは、なにをもて定むべきや。・・・これ、人々心ごころの花なり。いづれをまことにせんや。ただ時に用ゆるをもて花と知るべし。」
花の良し悪しは人々がめいめいの心に咲かせる花が決めること。
どれか1つを取り立てて、これが本物だ!とは言えない。
その時々、人それぞれの喜びこそが「まことの花」かもしれない。
会うたびに新しい側面や意外な素顔を見せてくれる。
いつでも新鮮な気持ちにさせてくれる人って素敵だよね。
きっと影で人一倍努力して、辛い経験をしているからだろう。
でも、努力や経験が必ず成功に結びつくと考えてはいけない。
人の心は多様で、すべての人が同じように認めてはくれないから。
変わり続ける努力をしながらも、涼やかにあきらめる素直さを。
以上で「成功の法則」をテーマにした「風姿花伝」の編集おしまい。
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