直感や創造性にロマンティックな信仰をよせる者は肩身の狭い時代。
今の社会が期待しているのは、合理的で論理的な考え方だから。
そんな思考法の出発点は、やはり17世紀のデカルトだろう。
「方法序説」をパラパラと読み直しながら、要約・編集してみよう。
まずデカルトは世界を読み解き、真理に近づくためには、
過去に積み上げられた知識や経験を投げ捨てろ、と説く。
「多くの異なった人びとの意見が寄せ集められて、しだいにかさを殖やしてきたような学問は、一人の良識ある人間が目の前にあることについて自然になしうる単純な推論ほどには、真理に接近できない。」P22
「わたしがその時までに受け入れ信じてきた諸見解すべてにたいしては、自分の信念から一度きっぱりと取り除いてみることが最善だ。」P23
その上で4つの規則に従えば、すべてが論理的に説明可能だと。
- 即断と偏見を避け、明らかなもの以外は判断に含めないこと
- 難問をより多く、よりよく解くために問題を小さく分割すること
- 最も単純なものから最も複雑なものへ階段を昇るように進むこと
- 全体を見直して、何も見落としていないことを確信すること
論理的に部分を積み上げ、全体に迫る方法で明証できなければ、
その考えは誤りとして捨て、その上で何が残るかを見よと説く。
いわゆる「方法的懐疑」を進める中でデカルトは、
「わたしは、ただ真理の探究にのみ携わりたいと望んでいたので・・・ほんの少しでもうたがいをかけうるものは全部、絶対的に誤りとして廃棄すべきであり、その後で、わたしの信念のなかにまったく疑いえない何かが残るかどうかを見きわめねばならない、と考えた。・・・このように、すべてを偽と考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない。」P45-46
こうして到達するのがあの有名な
「我思う、ゆえに我あり」 “Je panse donc je suis”
現在もてはやさせる論理的思考(ロジカル・シンキング)の原点は、
デカルトが示した4つの規則の1~3にあり、と言えるだろう。
でも4番目の規則に…あれ、これって「ラプラスの悪魔」だよね?
つまり「私は全知全能である」と高慢にならなければ、
論理的思考により真理に迫ることはできないことになるのでは?
「私」の理性を重視するデカルトにとっては、これでOK?
何か変なので、デカルト(1596-1650)と同時代に生きた、
というかデカルトを嫌った思想家パスカル(1623-62)を少々。
先月のNHK 100分de名著のデカルト最終回に出てきた比較表。
私は美しさや喜びは偶然に宿ると信じているせいかもしれないけど、
今の社会が必要としているのは、デカルトよりパスカルだと思う。
コメント
おぉ~これこれ!
パスカルの最終話で出ていた比較表・・・ブログで書こうと思って紙にメモまでしていたんですが紛失していました(笑)
テレビでデカルトとの違いを紹介していた時に何故か「パスカルって羽生名人っぽい!?」なんて感じていました
それがどうしてなのかはわからないのですがきっと自分はパスカルの考え方が好きなんだろう・・・そんなこと考えていたなぁ
「論理のデカルトvs直感のパンセ」
と捉えたなら羽生さんはパスカルでしょうね。
羽生さんの著作からいくつか。
「将棋にかぎらず、ぎりぎりの勝負で力を発揮できる決め手は、大局観と感性のバランスだ。」-決断力
「少なくとも私は将棋の手を考えるとき、自分の思考プロセスはまったく合理的でも論理的でもないと思っています。・・・もちろん勝負に勝ちたいという気持ちはあるんですけど、何かを見つけたいという気持ちもやはりある。」-自分の頭で考える