能の魅力を「花」に例えた世阿弥の能楽論「風姿花伝」。
「時分の花」に惑わされず「まことの花」を目指せ、と説いた部分は、
人生論として捉えることもできることは、以前紹介したとおり。
→ 世阿弥の人生論-風姿花伝・年来稽古条々(11/05/04)
今日は世阿弥の「花」の捉え方が、それ以前の時代と違って面白いので、
風姿花伝の第7巻「別紙口伝」を引用しながら紹介してみたい。
「花と、面白きと、めづらしきと、これ三つは同じ心なり。いづれの花か散らで残るべき。散るゆえによりて、咲く頃あればめづらしきなり。能も、住する所なきを、まづ花と知るべし。」
「花」と「おもしろさ」と「めずらしさ」の3つは同じこと。
散らない花などなく、散るからこそ咲いたときにめずらしさを感じる。
だから能においても、停滞することなく、変化し続けることが大切だ。
花が散ることを「前向き」に捉えているところが興味深い。
それ以前は散りゆく花に人生の無常を映していたのだから。
平安時代の和歌においては、桜が散ってしまうことへのドキドキが、
- 世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし
- 春風の 花を散らすと 見る夢は さめても胸の さわぐなりけり
在原業平や西行によって詠われている。
世阿弥以前の散る花には、どこかに哀しみが秘められている。
花は散るからこそ、次に咲いたときに美しさを感じることができる。
有限なこの世界に無限の美を演出しようとした世阿弥ならでは。
人生も花のように咲いたり、散ったりするものだよね。
咲き誇る花もやがて散るからこそ、大切な思い出として心にとどまる。
そして、再び花を咲かせたときに、極上の喜びを感じることができる。
たくさんの人の心に花が咲く1年でありますように。
コメント
美意識の内、月や花(桜)について、世阿弥と西行、業平では異なる
想いであることを興味深く拝見しました。
明治の南画家 松林桂月作《春宵花影》:ニューヨーク万国博覧会に出品(国立近代美術館所蔵)、はどちらのソースにインスパイアされたものなのでしょうか?
または、独自の解釈ありますか?
月、桜、陰影、春風、水墨、空間、構図、心などからの美的解析は?
2013年は松林桂月の没後50年です。
解説いただければ作品に近づけそうです。
松林桂月「春宵花影」はGoogleで検索して初めて見ました。
絵画には詳しくないのですが第一印象としては、
「ねがはくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月の頃」
という「西行」の和歌をモチーフにしたのかな?と感じました。
あとやはり水墨画なので「禅」の影響を受けて、
枯山水庭園や茶道、能楽などにも見られる美意識、
あえて省くことで限りあるこの世界に無限の美を演出する、
っていうのを頭に入れて鑑賞すべき絵なのだろうと。
心の中で色を感じて絵を完成させる、といった感じです。
岡倉天心「茶の本」が参考になるかもしれません。
参考になるかもれしない私の記事
・西行→http://www.pixy10.org/archives/2961918.html
・岡倉天心「茶の本」→http://www.pixy10.org/archives/20858993.html