相場の格言に「人の行く裏に道あり花の山」というものがある。
しかし多くの個人投資家はこれと逆行しているのではないか。
投資家だけではなく、社会全体が一方向に触れやすくなっている。
「知」を解放する装置として期待されたインターネット。
しかしFacebook等のSNSが登場したあたりから変質をはじめ、
以下の時代の名著が憂いた状況に似てきているように思える。
- ル・ボン「群集心理」(1895)
- ムッソリーニ政権誕生(1922)
- オルテガ・イ・ガセット「大衆の反逆」(1930)
- ヒトラー政権誕生(1933)
- ハンナ・アレント「人間の条件」(1958)
多数決の原理を持った民主主義は、
独裁者の圧政から人々を解放した点では優れた制度だった。
でも数のルールにしたがい、周囲にあわせる必要性から、
なんの美学や哲学も持たない烏合の衆を生み出したのでは?
そしてその烏合の衆が、数にものを言わせて、
再び独裁者に国の舵取りを委ねようとしているのではないか?
そんな危機感から次々と名著が生まれていった。
「群衆は、思考力を持たないのと同様に、持続的な意志をも持ち得ないのである。」(群集心理)
「相互のあいだに見かけだけの関係しか有しない、相異なる事象を結合させること、特殊な場合をただちに一般化すること、これが、集団の行う論理の特徴である。」(群衆心理)
「大衆とは良い意味でも悪い意味でも、自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分はすべての人と同じであると感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、他の人々と同一であると感ずることに喜びを見出しているすべての人のことである。」(大衆の反逆)
私たちはルボンやオルテガが懸念した存在になっていないだろうか?
残念ながら私たちの評価方法はいつも「質」ではなく「数」。
学術論文の価値はどれだけ他の学者に引用されたかで決まるし、
Googleの検索結果も被リンク数でランクが上下すると言われている。
また投資でも、ケインズが指摘したとおり「美人投票」の側面があり、
ESG投資もESG評価値のデータベース分析に頼りがち。
さらにはコストのみに着目した投信選びも、この類に入れられるだろう。
「数」のみを追い求める烏合の衆となり、
世界を深く理解しようと「質」の探究に挑まない人間はどうなるのか?
その見通しを示したのがハンナ・アレントだ。
「私たちの思考の肉体的・物質的条件となっている脳は、私たちのしていることを理解できず、したがって、今後は私たちが考えたり話したりすることを代行してくれる人工的機械が実際に必要となるだろう。技術的知識という現代的意味での知識と思考とが、真実、永遠に分離してしまうなら、私たちは機械の奴隷というよりはむしろ技術的知識の救いがたい奴隷となるだろう。」(人間の条件)
まるで昨今のAIの議論にも登場しそうな一節。
人間が自ら生み出した技術に対して時代遅れになってゆく。
分かりやすい指標が存在する領域に人間は不要になっていく。
勝手に価値や喜びを追究して楽しんだ先に何かを見出す。
それが最後に残される人間の存在意義になっていくのだろうか。
こう書き綴ってきて最後にふと思い浮かんだのが「無用の用」
「人は皆有用の用を知るも、無用の用を知る莫きなり」(荘子 人間世編 第九章)
人はみな役立つことの価値は知っているが、
無用に思えるものが真に役立つことだと分かる者はいない。
温故知新である。
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