西洋の思想を基に開発が進んでいる現在の人工知能に、
東洋の思想を融合することで、人工知能はもう一段階上の、
「人工生命」の域に達することができるのではないか?
そんな問題提起をした一冊、
が私にとっては類書の中で出色の内容だった。
「西洋は人間中心主義の中で、「人工知能はサーバント(召使い)である」「人間とは一線を画す人間以下のものである」という考えが一般的です。人間の知能を模倣するように人工知能を作り、人工知能と人間の上下の線引きを明確にし、同時に人間と人工知能の立場の逆転を恐れます。一方、日本は自然中心主義の中で、人間とは異なる存在として人工知能を作り、同胞として強く受け入れようとします。横並びの同列の存在であることを求めます。」
具体例として、エンターテインメント(映画・小説・コミック)の分野では、
- 西洋…人工知能が人間に反逆する話
- 東洋…人工知能は人間になりたいと願い、人間もまた人工知能を仲間として受け入れようとする。
と指摘されると、たしかに。
(すぐに思い浮かぶのは「ソードアート・オンライン アリシゼーション」)
日本の伝統的な美意識である「見立て」の拡張により、
日本は「キャラクターエージェントとしての人工知能」の分野で、
世界をリードできる可能性があるとも説いている。
なぜシンギュラリティが恐れられているかというと、
西洋の人工知能開発の思想的背景が、
- 人間の知能を機械に与える
- 「神の似姿として作られた人間」という人間中心の思想
- 「神 ー 人 ー 人工知能」という縦の関係性
にあるから。
ゆえに西洋では人工知能と人間の位置関係が神経質に議論される。
一方で東洋はどうかというと、
「少なくとも日本では、人工知能と人間の立場関係については、西洋ほど神経質に問われることはありません。・・・自分たちと共に暮らすことを前提に、それが生活をどう変えるのか、どのくらい親しくなるのか、という実際的なことに興味があるのです。」
また現在の人工知能に関する研究・開発の半分以上は「言葉」に関するもの。
それは西洋思想の中核に「知能は言葉に宿る」があるから。
「とにかく、西洋の人文科学における言葉へのこだわりの執拗さは驚くほどです。西洋は言葉を重視し、言葉が最初、中心と考えるところがあります。言語哲学は言語の中に人間を視ようとします。しかし、東洋は言葉は影だと捉えていて、本体は別にあると思っています。」
以前まとめた私の感覚は、まさに東洋人ならではということか。
- 知性の限界を超えるための「不立文字・教外別伝」(17/07/03)
東西の思想が知能や知性をどう捉えてきたのか整理ができて、
よく言われるとおり、人工知能について学ぶことは、
私たち自身を深く理解することなのだな、とあらためて感じるのだった。
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