シンギュラリティという言葉に気をつけろ!

最近、人工知能に関する本や記事を読んでいると、
シンギュラリティの定義が微妙にズレていることがある。

あれ? 人工知能が人より賢くなる地点じゃなかったよな?

シンギュラリティとは?

いま一度、本来の定義を振り返ると、

「シンギュラリティというのは、人工知能が自分の能力を超える人工知能を自ら生み出せるようになる時点を指す。自分以下のものをいくら再生産しても、自分の能力を超えることはないが、自分の能力を少しでも上回るものがつくれるようになったとき、その人工知能はさらに賢いものをつくり、それがさらに賢いものをつくる。それを無限に繰り返すことで、圧倒的な知能がいきなり誕生する、というストーリーである。」( 松尾豊「人工知能は人間を超えるか」)

本来の意味でのシンギュラリティはすでに到来しているように思える。
ただ、人工知能が人間の知能と同等レベルに達するかどうかは、
シンギュラリティとはまた別の問題
なのだ。

人工知能が人間の知能と同等レベルに達するか?

コンピューターができるのはあくまで四則演算なのだから、
はたして人間の知能を数式に置き換えることができるのか?

これに関しては読解力に焦点をあてて言語学者が論じた本が興味深い。

大量のデータからの機械学習という現在主流の方法の延長線上で、言葉を理解する機械を実現することは、きわめて難しいと考えられます。

同じ見解を取るのが最近のベストセラー「AI vs 教科書が読めない子どもたち」。
著者の新井紀子氏の主張についてはこの本を読むよりも、

を目を通すのが面白い。

後に助成金詐欺で逮捕されるスパコン開発者、齋藤元章氏のプレゼンに対し、

計算が大変に速くなったり多くなったり、特に1,000倍、1万倍、100万倍ということになると、今まで計算できなかった全てのことが計算できると考えがちであるが、 それはまったく見当違いである。…言葉に関して、つまり言語に関してのシンボルグラウンディングは全く理論上も突破できる見込みがまだ立っていない。意味がわからないコンピュータがどんなに速く計算しても、できない。」

とバッサリ斬り捨てた上で、

「シンギュラリティが来るかもしれない、というのは、現状では「土星に生命がいるかもしれない」とあまり変わらない。土星に生命がいない、と証明されたわけではないように、シンギュラリティが来ないことを今証明できるわけではない。一方で、土星に土星人がいるかもしれない、ということを前提に国家の政策について検討するのはいかがなものか。」

という新井氏の発言に対し、齋藤氏の反論は苦し紛れという印象。
後の逮捕まで考えると「シンギュラリティ」という言葉が、
国から助成金を得る手段として使われていたように思えてしまう。

シンギュラリティは科学信仰の一種?

またMITメディアラボの所長を務める伊藤穰一氏は、
著書「 教養としてのテクノロジー」のなかで、
シンギュラリティ信仰は宗教に近いものになっていると指摘。

シンギュラリティは、技術開発により指数関数的な成長を遂げると信じる思想であり、「科学信奉」に近いものがあります。」

「シンギュラリティ信仰に基づく「テクノロジー・イズ・エブリシング」の考え方が、資本主義的な「スケール・イズ・エブリシング」の考え方につながり、本来は社会を良くするためにある「情報技術の発展」や「規模の拡大」が自己目的化して、さまざまな場所で軋轢や弊害を生み出しているように思える。」

付け加えるなら「シンギュラリティによって私たちの仕事なくなる!」
という危機を訴える宗教のようなもので、

  • 悔い改めよ。神の国は近づいた。
  • 悔い改めよ。シンギュラリティは近づいた。

中世と現代で金儲けに繋がる魔法の言葉は不思議なほど似通っている。
シンギュラリティという言葉を見聞きする時は注意した方がよさそうだ。

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