偶然の文化比較と九鬼周造「偶然と運命」

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数学者が偶然や運命を計算で飼い慣らそうと必死だった歴史は、
ピーター・バーンスタインの「リスク」を読めば、なんとなく分かる。

では哲学者は偶然や運命をどう捉えていたのか?

  • あるものが偶然と呼ばれるのは、われわれの認識に欠陥があるからにすぎないスピノザ
  • 幸運とか運命とかいった概念は不当に獲得された概念だカント
  • 哲学的考察は偶然的なものを排除するという以外の意図をもたないヘーゲル
  • 現象学の領域には、いかなる偶然も在しないフッサール

西洋哲学は偶然とまともに向き合ってこなかったのかもしれない。
ギリシア以降、真理は必然的なものにしか宿らないって姿勢だしね。

一方、日本では神社に代表されるよう「偶然」に対して寛容。
神社には、御神体が祀られているかと思いきや、実は何もない。
多種多様な神様がときおり泊まりにくる宿のような位置づけなんだ。

そして私たちは神様と出逢えるかもしれない偶然に賭けてお参りする。

  • 何もないところに何かを感じとる文化(おもかげ・なごり・うつろい)
  • 常駐する神ではなく、ときおり訪れる来訪神(折口信夫「マレビト」)

このほかにも、むしろ偶然を愛でるような文化が日本にはある。

時の捉え方が西洋では「線」に対し、日本では「点」であり、
「瞬間の美」を愛でた日本ならではの感覚かもしれない。

  • この世は偶然の積み重ねにすぎない「はかない」もの
  • たまたま変な形に仕上がった茶器をめでる(例:織部焼

こうした文化的背景の恩恵なのか
偶然と向き合った哲学者というと、真っ先に九鬼周造の名前があがる。
(信長・秀吉に仕えた九鬼嘉隆の末裔で、母親が岡倉天心と不倫…)

偶然に関する論考を多数残しており、どれも内容が難しいのだけど、
唯一、講演録「偶然と運命」は読みやすいので要約してみた。


九鬼は偶然には3つの性質があると説く。

  1. 何かあることもないこともできるようなもの
  2. 何かと何かが遇うこと
  3. 何かまれにしかないこと

第1の性質の「あることもないことも」の意味は、
必ずあるという必然でもなく、決してないという不可能でもない、ってこと。
だから偶然は理由も原因もなく生じたもの、と考えられる場合もある。

第1の性質だけでは、偶然の成立の必要条件として不十分。

偶然が成立するためには可能が可能のままで実現される、必然に移らないで可能のままで実現される、といった風のことがなくてはならない。

だから第2の性質が必要になってくる。

出逢ったというその瞬間に可能が実現されて偶然となる

偶然の「偶」は「遇」、すなわち、「遇う」=「会う」から来てるのだから、

我と汝とが出逢うということが偶然の根本的な意味

第3の性質は、第1の性質を限定し、偶然の偶然さを尖らせるもの。
可能だけど不可能に近いこと(まれ)が実現すると、偶然が認識されやすい。

偶然は必然の方へは背中を向け、不可能の方へ顔を向けている

そして九鬼は運命についてこう語る。

偶然な事柄であってそれが人間の生存にとって非常に大きい意味をもっている場合に運命という。

人間にとって人生を揺り動かすような大きなことは主に内面的なことだから、

運命とは偶然の内面化されたものである。


偶然にすぎない出会いに運命を感じ、人の人生を一変させることがある。

他者の振る舞いと合わさって、思ってもみないことが起こり、その巡り合わせを楽しいと思った。本来の日本人が感じる「しあわせ」というのは、そういうことだったのではないでしょうか。

---玄侑宗久「しあわせる力」P111

偶然は人と人との「出会い」、運命は人の「心」を介さなければ生まれない。
そして偶然も運命も排除し、因果律ですべてを考えようとすれば、
「思い描いた未来」と「やがて起きる現実」との溝が埋まらず苦悩するだろう。
偶然はつねに生まれ、しあわせにつながる大切なものなのに。。。

参考文献

偶然性と運命 (岩波新書 新赤版 724)
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