知識分類のはじまり(16、17世紀)/ピーター・バーク「知識の社会史」

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ピーター・バーク知識の社会史の第5章「知識を分類する」。
ここに描かれたヨーロッパにおける知の整理が面白かったのでメモ。

知の分類に関する論争

1400年頃のミラノの大聖堂の建築における石工と建築家の論争

「幾何学の科学には、このような事柄に関して果たす役割がない。なぜなら科学と技芸は別物だからである。」(石工)

「科学を欠く技芸は無価値である。」(建築家)

  • 科学…理論的な知識、哲学者の知識
  • 技芸…実践的な知識、実践者の知識

どのような種類の知識を公共のものとすべきかの論争

  • 公共的な知識…宗教改革・印刷出版の興隆とともに求める声が高まる
  • 私的な知識(特定のエリート集団に限定された知識)

知的な好奇心はどの程度まで「虚栄心」つまり罪ではなく合法なのかの論争

  • 合法的な知識
  • 禁じられた知識…神の秘密は守られるべき(カルヴァンは好奇心を糾弾)

学問の体系

ライムンドス・ルルス「学問の樹」(1515年)。
支配的なものと従属的なもの区別、幹と枝の区別の方法で、
文化をあたかも自然であるように、発明をあたかも発見であるように提示。

17世紀には「樹」から「体系」が知識の組織構造を記述するのに使われるように。
そして体系は「カリキュラム」「図書館」「百科事典」によって構成されていた。

大学のカリキュラム

15世紀のヨーロッパの大学で最初に取る学位は文学士。
学生が学士となるために学ぶのは七つの「自由学芸」であり、

  • 言語に関わる初等の「三学科」…文法、論理学、修辞学
  • 数に関わる上級の「四学科」…算術、幾何学、天文学、音楽

最初の学位を取った後に神学・法学・医学のいずれかに進むこともあった。
その後18世紀までに「三学科」よりも「四学科」が重きが置かれるようになり、
さらに「三学科」と「四学科」に代わる体系として「人文研究」が現れる。
これは文法、修辞学、詩学、歴史、倫理学で構成されていた。

経済学が学問として認められるのは18世紀半ば以降で、
アダム・スミス(1723~90年)はグラスゴー大学の道徳哲学の教授であり、
彼の経済学の講義は大学の正式な講義として認められておらず、
「国富論」を出版したのも教授職を退職した後のことだった。

同時期のイスラム世界での学問体系は、

  • 異国の学問…算術と自然哲学
  • イスラムの学問…コーランや予言者の言葉の研究、神学、詩学

神学を上位に置いたキリスト教世界とは異なり、
イスラム世界では宗教的知識を世俗的な研究分野から区別していた。

図書館

コンラート・ゲスナー「書誌目録」(1545年)。
三千人の著者による数万冊の本を記載。分類の順序は、

  • 文法、論理学、修辞学、詩学(初等の三学科+1)
  • 算術、幾何学、天文学、音楽、占星術(上級の四学科+1)
  • 占い、魔術、地理学、歴史、機械技芸、自然哲学、形而上学、道徳哲学、経済学、哲学、政治学
  • 法学、医学、神学

図書カタログは大学カリキュラムよりも自由な体系を組んでいた。

中国の書籍分類法は、乾隆帝の「四庫全書」(1782年)に見られるように、
古典(経)、歴史(史)、哲学(子)、文学(集)の四分類に過ぎない。

ライプニッツ(1646~1716年)による新刊書の書評の分類は七つのカテゴリー。

  • 神学(教会史を含む)
  • 法学
  • 医学(物理学を含む)
  • 数学
  • 歴史(地理学を含む)
  • 哲学(文献学を含む)
  • その他さまざま…書籍の管理統制の限界が見えはじめる。

百科事典

ギリシア語の“encclopaedia”は「学習の円環」を意味する。

13世紀に出版されたヴァンサン・ド・ボヴェの百科事典「鑑」は、
自然の世界、理論の世界、道徳の世界、歴史の世界を順々に扱う。

グレゴール・ライシュの百科事典(1501年)は、
「三学科」「四学科」、自然哲学、道徳哲学の内容を要約するもの。

中国の百科事典の構成は、図書館の単純な分類法とは異なり分類が細かい。
天界の現象、地理学、皇帝、人間の本性と振舞い、政府、儀式…などなど。

17世紀初頭からアルファベット順へ。
知識を分類することへの断念とも捉えられる一方で、
階層的な世界観から個人主義・平等主義の世界観への転換の反映か?

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