西田幾多郎「善の研究」100分de名著メモ

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7年前に「善の研究」の改訂版が出たのを機に挑戦しようとしたが、
出だしの部分に禅と茶道を混ぜ合わせ、深入りせずに挫折してしまった。

NHK「100分de名著」で10月の一冊に「善の研究」が取り上げられており、
せっかくの機会なので今回学んだことをメモしておこうと思う。

まずはこの本を読み解く上でのポイント

  • 西田は「問い」だけを残した人。答えを求める書物ではない。
  • 第四編からさかのぼって読むと理解しやすい。

純粋経験と実在

「深く考える人、真摯なる人は必ず知識と情意との一致を求むるようになる。我よれは何をなすべきか、いずこに安心すべきかの問題を論ずる前に、まず天地人生の真相はいかなるものであるか、真の実在とはいかなるものであるかを明らかにせねばならぬ。」(P63)

自分自身のことではなく、この世界がどういう姿をしているのか?
それを探求することが本当の自分に出会う道。

「純粋経験を唯一の実在としてすべてを説明してみたい」(P6)

純粋経験とは?

  • 色を見、音を聞く刹那、未だ主もなく客もない
  • 主客が分化しない「あるがまま」の状態
  • 「私」の判断や認識の働く以前の経験

実在とは?

  • 現実そのままのもの
  • 世界をあらしめている働き(世界の真相)
  • 「純粋経験」を通じてのみ実在を認識できる
  • 知性だけではとらえきれない

知と愛

「宗教的要求は自己に対する要求である、自己の生命についての要求である。…我々は自己の安心のために宗教を求めるのではない、安心は宗教より来たる結果にすぎない。宗教的欲求は我々のやまんと欲してやむあたわざる大いなる生命の要求である。厳粛なる意志の要求である。」(P224)

宗教的欲求は「生」そのものの要求であり、
そこには「知」と「愛」の働きを欠くことはできない。

「知と愛とは普通には全然相異なった精神作用であると考えられている。しかし余はこの二つの精神作用は決して別種の者ではなく、本来同一の精神作用であると考える。しからばいかなる精神作用であるか、一言にていえば主客合一の作用である。我が物に一致する作用である。」(P259)

「我々が花を愛するのは自分が花と一致するのである。月を愛するのは月に一致するのである。…かくのごとき知と愛とは同一の精神作用である。」(P260)

「知」のみで世界を読み解くことはできない。
対象に没入していくことでつかみ取る「愛」の作用が必要だ。

どんなにその人のことを知っても愛せるとはかぎらないが、
その人を詳しく知らなくても愛することはできるように。

「知」と「愛」が結びついたところに何かが起きる。

善とは無限と一つになること

「意志の発展完成は直に自己の発展完成となるので、善とは自己の発展完成self-realizationであるということができる。すなわち我々の精神が種々の能力を発展し円満なる発達を遂げるのが最上の善である。」(P191)

西田の言う「善」とは人格の実現。
つまり我々の中の可能性が実現していくことが「善」。

西田の言う「自己」とは現在使われている意味とは違い、
他者と不可分な関係のことを指している。

まず「私」を手放すことが肝要。

「富貴、権力、技能、学識もそれ自身において善なるのではない、もし人格的要求に反した時はかえって悪となる。そこで絶対的善行とは人格の実現そのものを目的としたすなわち意識統一そのもののために働いた行為でなければならぬ。」(P201)

「人格的要求」とは他者の存在を尊ぶこと。

「道徳の事は自己の外にあるものを求むるのではない、ただ自己にあるものを見いだすのである。」(P220)

「善」を「生きる意味」と置き換えて考える。

生きる意味はどこかにあるのではなく、
すでに自分のうちにあり、それを見いだすものなのだと。

「善を学問的に説明すれば色々の説明はできるが、実地上真の善とはただ一つあるのみである、真の自己を知ればただに人類一般の善と合するばかりでなく、宇宙の本体と融合し神意と冥合するのである。宗教も道徳もここに尽きている。しかして真の自己を知り神と合する法は、ただ主客合一の力を自得するのみである。」(P221)

ここでの「宇宙」とは「無限」のこと。
言葉を超えて無限と一つになることに善を見い出すことができる。

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