なぜキリスト教は愛と平和を説きながら、戦争ができるのか?
そんな素朴な疑問をキリスト教徒の著者が読み解く、
石川明人「キリスト教と戦争」
が興味深かったのでメモ。
現在のカトリック教会の戦争に対する立場
現在のバチカンや教会の指導者層が戦争をどう理解しているのか、
公にされている文章がいくつかあるという。
どれも平和の大切さを説きながらも、正当防衛による戦争は肯定している。
現代世界憲章(現代世界における教会に関する司牧憲章)
これは現代人および世界と教会との関係を述べた文章。
平和を次のように定義した上で、
「単に戦争がないことでもなければ、敵対する力の均衡を保持することでもなく、独裁的な支配から生じるものでもない。」
「人間社会の創立者である神によって社会の中に刻み込まれ、つねにより完全な正義を求めて人間が実行に移さなければならない秩序の成果である。」
正当防衛による戦争は肯定している。
「戦争の危検が存在し、しかも十分な力と権限を持つ国際的権力が存在しない間は、平和的解決のあらゆる手段を講じた上であれば、政府に対して正当防衛権を拒否することはできないであろう。国家の元首ならびに国政の責任に参与する者は自分に託された国民の安全を守り、この重大事項を慎重に取り扱う義務がある。」
カトリック教会のカテキズム
教会および信仰に関する基本的な考え方を信者が学べるようにまとめた文章の中でも、
「正当防衛は単に権利であるばかりではなく、他人の生命に買任を持つ者にとっては重大な義務となります。共通善を防衛するには不正な侵犯者の有害行為を封じる必要があります。合法的な権威を持つものには、その責任上、自分の責任下にある市民共同体を侵犯者から守るためには武力さえも行使する権利があります。」
拡大解釈されたキリストの隣人愛
キリスト教といえば隣人愛というキーワードが思い浮かぶが、
著者によると聖書の表現が微妙で拡大解釈が可能なのだとか。
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネによる福音書15:12)
聖書の原文がこうだが、
たとえば戦時中の日本のキリスト教徒は次のように解釈したらしい。
「日本のあるクリスチャンの元特攻隊員は、戦時中、この「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」という言薬によって、自分の死を前提とした特攻作戦に納得しようとしていたと告白している。」
聖書にはっきりと戦争を禁止と書いてくれればよかったのだが、
「聖書では、「敵を愛せ」などと、良くも悪くも常識とは異なる表現がなされているものだから、では、やむをえないかぎりの実力行使でもって悪人を善の道に導くならば、それは敵に対する「愛」の行為に相当するのではないか、とか、無条件の非暴力主義は時には悪を放置・黙認する無責任な姿勢であり、愛に反する態度でもありうるのではないか、などと、議論が錯綜するのである。」
つまり、その時の社会状況やそれぞれの人生経験によっては、
「愛」と「暴力」が矛盾せず、両立可能なのがキリスト教なのだと。
憲法第9条の議論に似ている
平和や戦争放棄を訴えながらも、今の東アジア情勢の中、国家・国民を守るためには、
正当防衛の手段まで捨てることは現実的ではなく、自衛隊を否定できない日本。
なんとなくキリスト教の平和と戦争の解釈に似ている。
憲法も聖書も理想を掲げたものに過ぎないと捉えるならば、
聖書の書き直しが行われないように、憲法改正にこだわらなくてもいいのでは?
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