たねやの四代目、山本昌仁氏が書いた本がかなり面白い。
お菓子づくりに込められた想いが分かり、
たねやのお菓子を食べたくなるのはもちろん、
縮小する業界で右肩上がりの成長に導いた三代目の手腕が特に興味深い。
そのあたりの記述を中心に編集してみた。
江戸~明治時代
先祖は江戸時代に近江八幡で材木商を営んでいたが、
建築木材の不足に目をつけ、穀物や根菜類の種子を売る「種屋」に転身。
菓子屋に転じたのは1872年。山本久吉が近江八幡に「種家末廣」を開店。
二代目脩次の時代
冠婚葬祭の引き出物菓子として、高級路線を選択。
近江八幡界隈では他の菓子屋の倍の値段で商売をしていた。
「高単価で売れるなら、高価な食材も使えるので、必然的に品質も上がっていく。作り手として打てる手が広がっていくわけです。このことが私たちの商いに大きなアドバンテージを与えてくれました。」
三代目徳次の時代(1966~2011年)に急成長
冠婚葬祭などの大口注文中心から店舗販売へ
「たねやはバブル時代、ホテルや料理屋などから大口注文をとることをやめ出します。二〇〇〇年代に入る頃には、ほとんどなくなりました。値引きしてでも大量に卸すことより、店で売ることを選んだのです。」
この選択が同業他社との明暗を分ける。
バブル崩壊後、大口注文に頼り切っていた菓子屋は倒産した。
店舗を増やしていくにあたっての方針は、
- 家族ともども移り住み「支店ではなく、すべてを憧れの本店」にする心構えで、
- 1984年の日本橋三越への出店の際も現地に移り住んだ。
- ショーケースには多品目は並べず、看板商品の栗饅頭と最中を中心に。
日本橋三越ではケースに並べる菓子の生産が間に合わず、
苦肉の策でゆとりある売場づくりをしたところ評判になった。
混み合うデパ地下でホッとできる空間を顧客が求めていた。
季節による売上の変動をどうするか?
菓子屋の商いに必ずついて回る売上の季節による変動がある。
- お歳暮、クリスマス、正月などの集中する年末年始が、菓子屋の繁忙期。
- ゴールデンウイーク頃までは和菓子が売れるが、その後は栗の季節まで閑散。
歳時菓子に力を入れて、季節や行事の日限定の新商品にも力を入れていたが、
とくに夏場の苦戦をどう克服するかが課題だった。
- 水羊羹を開発し大ヒット。「夏のたねや、冬の虎屋」と称されるように。
- 現在では1年間で最も売上が多いのがGW明けから8月半ばまで
こだわりの本生水羊羹
いつからかは忘れたが水羊羹といえば「たねや」と私も認識していた。
これには次のような秘密があったことを知った。
「世の中に出回っている水羊羹の大半は缶詰です。高温で殺菌することで、いつまでも保存がきくようにしてある。ところが、高温で熱すると、小豆が変質して風味が飛んでしまいます。こうした水羊羹は黒っぽい茶色をしているので、みんな小豆はそういう色だと思い込んでいますが、本当は紫色なのです。」
食品を長持ちさせたいときの選択肢は次の3つ。
- 殺菌のために熱を加える
- 砂糖をたくさん入れる
- 最初から無菌で作る
たねやでは2004年に7億円を投じてクリーンルームを建設。
完全無菌状態で水羊羹を作ることで、あの美味しさを実現した。
現在の経営状況
たねやグループの二〇一七年の売上は二百億円を突破
- 和菓子のたねやと洋菓子のクラブハリエで売上が半々
- 滋賀県、関西、関東で三分の一ずつの売上バランスになるよう調整
またグループ内のクラブハリエ(洋菓子)のチョコレート販売で、
比較的弱かった1,2月もカバーした。(1ヶ月で7億円を超える売上)
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