東アジアにキリスト教やイスラム教と同列にできる宗教は存在せず、
代わりに生み出されたのが「書字」すなわち「文字を縦書きすること」。
そんな興味深い主張が書家が書いた本に記されていた。
たしかに同世代の孔子(儒教)、老子(道教)、釈迦(仏教)は、
彼らより一世代後のギリシアのソクラテスに近いように思える。
つまりキリストやムハンマドのように教祖と言うよりも思想家なのだ。
「宗教なき東アジアは、宗教に代わるべきものを生み出します。それが書字、つまり文字を縦書きするということです。天地神明に誓って文字を縦書きする。横書きではそこに天を感じることができませんから駄目なんですね。天からの垂直の重力を受け止めながら縦に書くということが、東アジアにおいては、宗教に代わる。」
そういえば他の著作でも独特な視点を披露しており、
- 縦書き…書き終えた箇所が右手で隠されるため、常に未知の余白に進む
- 横書き…横書きでは書き終えた文字が常に目に入る
そういわれてみると論理的思考というのは横書き言語圏ならではなのかも。
またルース・ベネディクトの「菊と刀」を例に挙げ、
東アジアと西欧の宗教観の違いを以下のように比較もしている。
「ベネディクトは日本を「恥の文化」といいますが、この「恥の文化」というのは、結論的にいってしまうと、漢字文明圏の東アジアは、基本的に宗教を失っており、これに代わって地縁や血縁の共同性の価値を重視してきたということにほかなりません。西欧が「罪の文化」というのは、神を設定し、その神に対する恥が罪ということになります。それに対して漢字文明圏の一つである日本には神がいないので、横に繫がっている人々に対して犯した罪が恥ということになるのです。恥と罪とはそういう関係にあります。」
日本文化の特殊性の根源は日本語に
そしてその
国の文化の根幹には文字や文体があると説く。
日本文化の特殊性は、
- 漢字=漢語=音語=漢文体…政治・思想・宗教を表現するための断言の言語
- ひらがな=和語=訓語=和文体…性愛と四季と耽美の世界を担う言語
- カタカナ…正書体の存在しない発音記号の半言語
からなる三種の文字による言語表現の蓄積がつくりあげたもの。
さらに近年はここにアルファベットも加わり、四種の文字の雑種語になっている。
「日本人は非常に繊細で、表現がニュアンスに富んでいるといいますが、それは日本人が繊細であるというより、日本語の構造が繊細であるということにすぎません。」
またその裏返しとして日本語が繊細でややこしい言語であるからこそ、
明治維新間もない頃には英語、戦後すぐにはフランス語、最近ふたたび英語と、
公用語を他の言語に変えようという議論がたびたび浮上することになる。
「日本人の非連続観というのはどういうことかというと、ひらがなで思考してきたかと思えば、次はちょっと漢字に変える。漢語系で考えるのです。明治がそうでした。それで駄目だとまたちょっとひらがなで考える。それも駄目だと戦後のように今度はカタカナでということをやるのです。」
日本人の一貫性のなさは、
自然災害の多さゆえに、将来に備えて計画を立てることよりも、
不幸が起きた後の心の整え方が重視されてきたからだと考えてきた。
なるほど日本語の成り立ちにも遠因があるようだ。
「いま多くの日本人がカタカナでみんな考えているから、歴史から切れ、文学から切れ、不連続になり、あまりものを深く──歴史的・文学的に──考えないようになっています。中途半端なカタカナ語をいっぱい入れているわけです。行政、ビジネスの世界が、まさにそうです。」
カタカナ語がなんとなく軽薄に感じるのは、
深く考えることなしに、発音記号で受け流しているからなのだ。
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