長沼伸一郎「世界史の構造的理解」を読んでいて、ふと思ったこと。
著者はユダヤ教、イスラム教、キリスト教が、
なぜ同じエルサレムで生まれたのか?を経済と結びつけて説く。
エルサレムはメソポタミアとエジプトの二つを結ぶ通商路であり、
世界で初めての交通の要衝であり、通商都市であった。
砂漠の通商都市では、ヒト・モノ・カネはどんどん動いていくから、
農村社会のように軍事力を持った封建領主が秩序を維持することはできない。
人々の短期的欲望の追求による退廃を抑え込むには宗教の力が必要だった。
そして商業文明による退廃を防ぐためには、一神教である必要があった。
なぜ多神教ではダメなのか?
「多神教というものはとくに金の力と結びつくと厄介で、極端な話、ある金持ちが自分に都合の良い神様を「スター発掘」の要領でフィーチャーし、金の力で巨大な神像などをつくって庶民をその壮麗な演出に誘い込んで虜にしていけば、法律以上に強大な力を自分のほうに引き寄せてしまうことが可能になる。そうしたことが起こるのを防ぐには、最初からその余地を断っために一神教のかたちにしておくことが必要であり、逆に言えば多神教というものは農村社会のように、大規模な商業文明による縮退の恐れを心配する必要のない場所でのみ、無害なものとして存在を許される性質のものなのである。」
本書の話は今の巨大企業や富裕層が国際的な税金逃れをするのが、
一神教が生まれた当時と似ているよね、という話なのだが…。
私は勝手に脱線して、多神教だから日本人は、
- 政教分離を掲げながら裏では新興宗教と繋がっていたり
- 新興宗教に人生を狂わされたり
というように悪意を持った宗教にだまされやすいのかなと考え込んだ。
(私が知らないだけで一神教の国でもよくあること?)
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