明日第3回目の最終回が開催されるシンポジウム「激動する世界と宗教」。
興味があったものの参加できなかったが、今月から書籍化がはじまった。
パネルディスカッションの模様を収録した部分で興味深いのが、
ネット社会での宗教のあり方についての議論。
ネット社会が孤独の時間を奪う?
Facebookの「いいね」を介した集合性のように、
自分がひれ伏していると感じていなくても、
快く参加できるものに擬似宗教性が宿っているのではないか?
という松岡正剛の問題提起に対して、若松英輔がこう答える。
「同じ場所で祈ることはできても、その人は個である。その人の個の心が超越につながるのが祈りです。」
でも現代は家に引きこもっていても、無数の人とつながることができてしまう。
本当の意味での孤独の時間の消滅が宗教の存在感を低下させているのだろうか?
ふと思うのだが兼好法師の「徒然草」でも、
孤独の価値を理解しない人々を批判した下りが多く見受けられる。
ネットが孤独の時間を奪ったというよりも、
時になんの美学や道徳律もなしに群れをなしたがるのが人間の性なのでは?
人工知能は教祖になる日は来るか?
「人工知能というのは、すでに悟っている。人間みたいに悩まないし、問題意識を持たない。・・・人工知能に人間性が宿るかどうか分かりませんが、その宿らせ方が分かったら、宗教がどのように発生するかのメカニズムが見えてくると思います。」(碧海寿広)
という発言に関連して、池上彰がこんな問題提起。
昔の人は思い悩むと神父や牧師に相談してきたが、
経験や経典からふさわしい回答を探すのなら、
人工知能のほうが主観を交えず、瞬時に情報を出せるのでは?
「われわれは何かについて詳しくなることと、分かち合うことを、混同しているのだと思います。・・・言葉たりえないものを、われわれが分かち合える場として、宗教の次元は、なくてはならないと思っています。」(若松英輔)
たしかに禅の特徴をあらわした「不立文字」「教外別伝」という言葉があり、
論理的な思考を手放した体験に本質があり、文字にはできないから(不立文字)、
特定の経典に囚われずに、師匠から弟子へ体験を通じて伝えるべき(教外別伝)。
というように知識や知恵を得ることが宗教の本質ではない。
ただ一般市民のレベルでは、今も昔もそこが一番大切なのだから、
すでにGoogleの検索窓が教祖に近い存在になりつつあるのかもしれない。
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