ハイゼンベルク「部分と全体」

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ウェルナー・ハイゼンベルクの自伝「部分と全体」を久しぶりに読み返した。

この本をはじめて手に取ったのは2012年のこと。
投資好きが興じて未来学を追い求めて挫折した過程で、

  • ハイゼンベルク「不確定性原理」
  • ゲーテル「不完全性定理」
  • アロー「不可能性定理」

といった話が妙に心に響いていた。

とはいえ、この「不確定性原理」を正しく理解できているかというと…(苦笑)

粒子の位置を測定しようとすると、その行為が対象の速度を変化させ、
速度の測定値に不確定性を生んでしまい、測定精度に限界が出る。

これを自分なりの解釈をして、頭に留めているのは、
2つの値の関係性を測定しようと、一方の値をはっきりさせればさせるほど、
他方はそれに反比例して不確実性を増していく、ということなのかなと。
勘違いかもしれないけど、投資をしていると、なんとなくこの感覚があるんだよね。

さてハイゼンベルクがこの「不確定性原理」を導き出したのは1927年。
そしてこの年の物理学の国際会議「第5回ソルベー会議」の参加者が凄い。
この会議に参加した物理学者の集合写真を見てみると、
29名のうち、17名の学者がノーベル賞を受賞しているのだ。

「部分と全体」の副題に「私の生涯の偉大な出会いと対話」と付されているように、
物理学を議論するなら、とにかく対話の相手に恵まれていた時代なのだ。

「この本を通じて、科学は討論の中から生まれるものであるということを、はっきりさせたいと望んでいます。」

ハイゼンベルクが冒頭に記したように、対話の大切さが分かる構成になっている。
でも物理学の細かい話になってくると、何度読んでもむずかしい。。。

ただ時折挿入されるハイゼンベルクの哲学的な悩みが目を引いた。
不確定性原理で世界を観測することの限界を示した後、
物理学上の測定を超えて、人間の認識をも追究していたような…

「われわれの自然科学で”わかる”という言葉がそもそも何を意味するのか私にははっきりしない。」P48

「量子力学の拡張の必要性が、時折問題にされるのは、人間の意識の存在についてです。物理や化学に“意識”の概念が現れないということについては疑いの余地はないだろうし、何かそれらしきものを量子力学からどうやって作ったらよいかも実際よくわからない。しかし生きた有機体までを含めた自然科学の中に、意識は場所を持つべきだ。」P184

「世界の、全体としての秩序ある構造の背後に、世界の構造そのものの“意図”となっている“意識”などというものを考えることは完全に無意味なのであろうか?・・・われわれがそれを人間的な領域外でも用いようとすると“意識”という概念の意味はより広がり、同時にぼやけてくることに気付く。」P342

粒子のあいまいなふるまいに、どこかに意志はないのか?と探すうちに、
そもそも私たちの認識とは一体なんなのか? 意識はどこにあるのか?
というところまで、この人は考えていたのかもしれない。

部分と全体―私の生涯の偉大な出会いと対話
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