ポール・ヴァレリーは20世紀前半に活躍したフランスの詩人。
世界や自分をどう捉えるべきか悩んだ若き日のヴァレリーは、
自分の分身、テスト氏なる人物を生み出し対話をはじめる。
そのテスト氏シリーズ1作目が"La soiree avec Monsieur Teste" 。
「テスト氏との一夜」や「ムッシュー・テストと劇場で」と訳されている。
この主人公テスト氏の人物設定が興味深い。
趣味も仕事も株式投資で「お金は社会の精神のようなもの」と語る人物。
もしかするとヴァレリーは不安定な人間の精神を株価の動きと結び、
投資哲学の中に世界を読み解く方法を見出そうとしていた?
なんて勝手なことを考えながら読むとおもしろい。
「どんなものごとについても、それを認識するのが、実現するのが易しいか難しいか、わたしはただそれにしか関心がないね。難度の度合いを測ることには極度の注意をはらっている。しかも何ごとにも執着しないようにしているんだ……そもそも、よく知っていることなど、わたしに何の意味がある?」P21
こんなテスト氏の語りに株式投資の真髄が見え隠れする。
詳細な分析はするが、それに執着はしない。分析自体に意味はないから。
こんなことを語るテスト氏をヴァレリーはこう評する。
「精神と精神のあいだに立ちはだかる永遠の壁も、それを聞くと崩れ落ちてしまうと思わせる言葉。」P23
自分の内と外の間には何があるのか。何が内と外を切り分けているのか。
境界があいまいで透明なテスト氏の存在は、ある意味「禅」的。
ゆえにヴァレリーの描いたテスト氏は、投資家ではなく投機家なのだ。
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