ポール・ヴァレリー「精神の危機」「知性について」

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ポール・ヴァレリー「精神の危機 他十五篇」より、
「精神の危機」と「知性について」の読書メモ。

精神の危機

ポール・ヴァレリー(1871~1945)は、
産業革命や資本主義などで世界をリードしたのが、
なぜヨーロッパだったのか? そもそもヨーロッパ人は何者か?
という疑問に挑み、他の地域との3つの違いに着目する。

  1. ローマ帝国(権力)

  2. キリスト教(精神)

  3. ギリシア幾何学(知識)

ローマ帝国が支配したところ、その力を感じたところ、さらにはローマ帝国が恐怖や、賛嘆や、羨望の的となったところ、ローマの剣の圧力が感じられたところ、制度や法律の重みが受け止められたところ、司法の機構や尊厳が認知され、手本とされ、ときには奇妙な形で猿真似がされたところ、ーそうしたところには、全て、なにがしかヨーロッパ的なものがあるのだ。」

「ローマの支配が政治的人間のみをとらえ、人々を外的習慣の側面でしか律しなかったのに対し、キリスト教支配は次第に意識の奥底を射程に入れ、手中に収めはじめた。」

ギリシアの幾何学こそ完璧をめざすあらゆる知識の不滅のモデルであったばかりでなく、ヨーロッパ的知性の最も典型的な特質を示す比類ないモデルであった。」

こうした背景があるから常にヨーロッパが優位性を保つのか? 
ヴァレリーの主張は、あくまで「ヨーロッパモデル」が優れているのであって、
他の地域にも移植可能
であり、その代表例がアメリカであるというもの。

「優っているのはヨーロッパではない、ヨーロッパ「精神」である。アメリカもそこから生まれた恐るべき新勢力なのだ。」

知性について

ヴァレリーの生きた時代も「知性の危機」が叫ばれていたようで、
当時は機械化による危機、今なら人工知能に置き換えることができるかな。
ヴァレリーは知性の危機を「機能」と「階級」、2つの面から論じている。

まず「機能としての知性」に生じている危機は、

「機械が我々にとって有用に思われれば思われるほど、我々自身は不完全な存在となり、機械を手放せなくなる。」

「懸命に濫費する道を考えるために、新たな必要を一から創出するようなことをする。」

極端な能率主義や浪費の追求に明け暮れる、いわば「切迫中毒」にある。

また「階級としての知性」に生じている危機は、

「最も組織化されたものが、最も組織化されないものを攻撃するようになるのは理の必然なのである。」

以前は民族間の話だったが、これからは最も組織化されたものとして、
機械が人間の上に降臨することになる。そうするとどうなるのか?

「機械は役割や存在条件が厳密に定義されていないような人物がいつづけることを認めることができない。機械は自分の観点から見て厳密さを欠いた個人を排除しようとし、他者と過去と無関係に、再編成しようとする。」

「機械は専門家しか認知しようとしないし、また認知できない。」

しかしそもそも専門家や知識人とはいったいどういう存在なのか? 
知識人であっても代替可能な人とそうでない人の境界はあいまいだ。

「実際には、完全に相互に入れ替え可能な人間は存在しない。そう見えるときも、実際は近似的に入れ替え可能な人間であるだけである。」

そんな曖昧な存在を機械が受け入れることはない。
ヴァレリーはこの評論の末尾でこう語る。

「人間のも最も単純な生活に必要なものだけを考慮に入れて作られた現実界の序列が、この問題を最後まで見届ける観察者に対して、示されることになるだろう。」

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