「たらいまわし」という習慣はいつ頃からはじまったのか?
映画「殿、利息でござる!」の原作、磯田道史「無私の日本人」によると、
戦国時代が終わり、武士の人数が有り余ったことに起因するようだ。
だから一人でできる役職を二人以上で担当させ、多くの武士を役に就けた。
また武士の世界では主君以外の誰かが突出して権力をふるうことを嫌い、
複数の人間で物事を決め、誰に権限があるか分からないようにしていた。
その結果「たらいまわし」という奇妙な習慣が生まれた、との解説だった。
この本は江戸時代を生きた以下の3名に焦点をあてて、
明治以降に徐々に失われていく日本人の美徳を描いた一冊。
- 穀田屋十三郎
- 中根東里
- 大田垣蓮月
上記の「たらいまわし」も含め、
ところどころに著者の歴史観が織り込まれているのが興味深い。
「江戸時代、とくにその後期は、庶民の輝いた時代である。江戸期の庶民は、
──親切、やさしさ
ということでは、この地球上のあらゆる文明が経験したことがないほどの美しさをみせた。倫理道徳において、一般人が、これほどまでに、端然としていた時代もめずらしい。」
そういえば10年前に感銘を受けた、渡辺京二「逝きし世の面影」は、
幕末・明治に来日した外国人の証言をもとに、
世界に誇るべき文化があったことを教えてくれる一冊だった。
たとえば日米修好通商条約を締結したタウンゼント・ハリスはこう記す。
「これが恐らく人民の本当の幸福の姿というものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果たしてこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるかどうか、疑わしくなる。私は質素と正直の黄金時代を、いずれの国におけるよりも多く日本において見出す。生命と財産の安全、全般の人々の質素と満足とは、現在の日本の顕著な姿であるように思われる。」(渡辺京二「逝きし世の面影」P121)
こうした証言を裏付けする具体的な人物像が知ることができてよかった。
中国の故事成語(後漢書)には、
水至って清ければ則ち魚なく、
人至って察なれば則ち徒なし。
水がキレイすぎると魚が住めないように、
清廉潔白を追求しすぎると人が寄りつかない。
と説いたものがあるが、磯田氏の想いは違い、あとがきにこう記す。
「時折、したり顔に、「あの人は清濁あわせ呑むところがあって、人物が大きかった」などという人がいる。それは、はっきりまちがっていると、わたしは思う。少なくとも子どもには、ちがうと教えたい。ほんとうに大きな人間というのは、世間的に偉くならずとも金を儲けずとも、ほんの少しでもいい、濁ったものを清らかなほうにかえる浄化の力を宿らせた人である。この国の歴史のなかで、わたしは、そういう大きな人間をたしかに目撃した。その確信をもって、わたしは、この本を書いた。」
昔だったら、そうは言っても…と考え込んだのだろうけど、
それは善悪と清濁を同じものと捉えていたせいでは?
そんな気付きを与えてくれた一冊だった。
コメント