私たちが味覚だけで食事を味わっているのではないことを科学的に説いた、
チャールズ・スペンス「おいしさの錯覚 最新科学でわかった、美味の真実」。
著者はポテトチップスを噛じる時の音を増幅させると、
実際よりサクサクで新鮮だと感じることを実証し、イグノーベル賞を受賞している。
「少なくとも知覚という点で、味覚はそれほど重要ではないことがわかる。そう主張する理由は、各感覚に割り当てられた大脳皮質の領域の大きさにある。視覚の処理に脳の半分以上が関連している一方で、味覚に直接関係する大脳皮質の領域は一パーセントほどでしかない。なぜなら、私たち人間の脳は身の周りの環境から統計的な規則性を導きだすからだ。要するに、私たちは学習を通じて、色やにおいなど、味覚とは別の感覚を用いて潜在的な食べ物の味や栄養価を予想できるようになる。そのおかげで、多種多様な食べ物を一つひとつ口に入れて味を確かめることなく、それらを食べた場合何が起こるか、前もって予測できるようになる。」
そして料理を見た目の重要性を説いた一節にこんな話を書いている。
フランス料理が見た目を重視するようになったのは1960年代からで、
「「ガストロポルノ」という言葉が最初に使われたのは1977年に書かれた機知に富んだレビュー記事で、その記事はポール・ボキューズのフランス料理の料理本のことを「ガストロポルノの高価(20ドル)な教本」と描写した。この言葉が広まり、のちに『コリンズ英語辞典』にも「極めて官能的な表現の料理」を意味する単語として収録されたのである。「フードポルノ」という言葉を好んで使う人も多い。ただし、二つは同じ意味で使われている。」
これ以後、料理の写真映えのよさを気にかけるシェフが増えたのだという。
今の「インスタ映え」は、元をたどればシェフの側から発信されたものだったのか。
ただ日本料理はどうなのだろう?
すでに「皿は料理の着物」と魯山人(1883~1959)がこだわっていたように、
もともと盛り付けの美しさも美味しさの一部であると認識していたのでは?
懐石料理の源流が神に捧げる「神饌料理」とされることも関係があるかも。
懐石料理、とくに八寸は写真に残したいほど美しいものに出会うが、
なんとなく気が引けて、スマホを取り出さないことにしている。
盛り付けの美が神への捧げ物に由来するからなのか、
茶道から生まれた懐石料理に一期一会の精神があるからなのか、
心に焼き付けるべし、といった日本人ならではの感覚なのだろうか。
もっとも天ぷら屋での撮影行為は、味オンチか、職人への敬意がないかのどちらかだが。
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