善悪二元論を倫理学から考えてみる/佐藤岳詩「倫理の問題とは何か」

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自分の信じているものを強く信じるために、
敵を作って批判してしまいがちなのはなぜなのか?

それはデカルトの「方法序説」以来、
私たちが築いてきた思考法の基本が二元論だから?

今月のrennyさんとのポッドキャスト収録でそんな話になった。

ただ物事を「善」と「悪」に分けて考えるのは危険で、
古くは老子が美や善と見いだすことが悪や不善を生むと説いた。

天下、皆、美の美為ることを知る。これ、悪なるのみ。

皆、善の善為ることを知る。これ、不善なるのみ。

善悪の境界について、もう少し深く考えみたくなり、
佐藤岳詩倫理の問題とは何かという本を手に取った。

倫理学の分野では第二次大戦の戦中・戦後の混乱のあたりから、
オックスフォード大学を中心に議論がされてきたらしい。

以下に目を引いた論点をまとめておく。

倫理とは何か?

そもそも倫理とは何なのか?を巡り、
これまでに4つの見解が提示されてきたという。

  1. 重要性基準…私たちの生にとって重要で深刻なものを示すものが倫理・道徳。重要なものを保護し維持することが倫理的に優れたことであり、その逆が倫理的に劣ったことである。(フィリッパ・フット)
  2. 理想像基準…私たちにとっての理想像を示すものが倫理・道徳。理想に近づくことが倫理的に優れたことであり、その逆が倫理的に劣ったことである。(リチャード・マーヴィン・ヘア)
  3. 行為基準…意図に基づいた振る舞いを示すものが倫理・道徳。良い意図に基づく行為が倫理的に優れたことであり、その逆が倫理的に劣ったことである。(エリザベス・アンスコム)
  4. 見方基準…倫理・道徳とは世界の見方そのもの。世界の良い見方が優れた倫理であり、その逆が劣った倫理である。(アイリス・マードック)

善悪を論じている時、議論が噛み合わなくなることがあるのは、
それぞれ拠り所とする基準が異なることから生じているのか!

倫理の問題に正解はあるのか?

倫理の問題に客観的な正解はあるのか?を考えた時、
正解はないとする考え方、正解はあるとする考え方、
それぞれの考え方はどのような理由から生じているのか?

ジョン・マッキーは、客観的な正解が存在しないにもかかわらず、
正解があると思い込んでしまう理由は、

  • 私たちは、他人に自分と同じように行動してほしい
  • 私たちは、自分の人生に意味があってほしい

という想いがあるからだと説く。

SNSで飛び交う言動の根幹にあるのはこれに近いように思う。

ジェームズ・レイチェルズは、客観的な正解が存在するにもかかわらず、
正解がないと思い込んでしまう理由は、

  • 文化が地域や時代によって違っていることから、倫理の正解も共同体によって違っているように見える
  • 心理学や進化生物学の知見を踏まえると、倫理も生物としての反応や本能に過ぎないように見える
  • 倫理においては正解を証明することができないように見える

という考えからくるものだと説く。

経験を重ねるとこっちの方に寄せられていくように思える。

真理を求めるとはどういうことか?

倫理の問題に正解があるのか、ないのかを考えるとき、
自分の都合で倫理について歪んだ見方をしていないか?
自省するための方法はなんとなく分かってきた。
そこからさらに踏み込んで、真理を探求する必要があるのか?

リチャード・ローティは、真理は求めても得られない、
知性の限界があることを謙虚に受け入れるべきと説く。
現在正しいと思われていることは、偶然の産物にすぎないから、
真理の探求よりも目の前の不幸に手を差し伸べることが大切なのだと。

一方でバーナード・ウィリアムズは、
真理の探求は私たちが決して諦めてはならないものと説く。

信実という徳を身に付け、情報を正確に入手し、人に誠実に語ることではじめて、私たちは自分自身を信頼し、自尊心をもって自分らしさを追求できるようになる。この徳を欠くと、名誉を失い、恥や後悔、罪悪感にさいなまれることになり、自分らしく生きることは難しくなる。

私自身は知性の限界に直面して諦めも秘めながらも、
真理を探求したいという想いは捨てないでいる、という感じかな。

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