絶版本 ノルベルト・ボルツ「意味に餓える社会」を要約

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1997年に書かれたノルベルト・ボルツ「意味に餓える社会」。

結構お気に入りの本で、数年に1度読み返しているのだけど、

だいぶ前から絶版のまま入手困難なのが残念。

原題はドイツ語で”Die Sinngesellschaft”。

そのまま訳すと”Sinn”(意味)・”Gesellschaft”(社会)。

ドイツ語の「意味」”Sinn”の語源は、

「旅する」や「進路をとる」という意味の古語に由来とのことで、

日本語にするなら「目標」という意味合いも含んでいそうだ。

現代は目指すべき”Sinn”が失われた時代であり、

それを追い求めることは、

「失われた意味を求めることは実は複雑性からの逃避である。」

「意味を問うということは近代社会を欲しないということである。」

というのが著者の主張であり、

より厳しい言い回しのフロイトの発言も引用している。

「人生の意味を問うものは、病気である。」

人々を思考停止におとしめた宗教

なぜ著者はここまで意味を求めることを否定するのか?

それは近代以前、この世界の複雑性・不確定性に意味を与え、

理解したつもりにさせてくれるのが宗教の存在だったからだ。

「宗教は、まさに社会生活が偶然に次ぐ偶然によって、もてあそばれるところに意味を作り出す。だから宗教というものは、不確定性(コンティンジェンシー)と呼ばれる事態と正確な対応関係にある。つまり、宗教は、何が起こるか分からない不条理な世界において儀式により意味を構成するわけだ。」

「生きるということは、周りの世界の偶然を自分のアイデンティティの要素になるように解釈してゆくことである。しかし、きわめて重大な偶然にかぎって、個人が解釈しきれないものなのだ。宗教はまさにそこをとらえる。」

偶然起きた不運などによって生まれた心の隙間に入り込み、

いわば魔術によって人々を思考停止におとしめた中世の宗教。

それに対する批判から著者は意味を求めることを強く批判する。

科学技術による脱魔術化

人々の心を宗教から解放をしたのが科学技術の発展だった。

「意味が見つからないという体験は、科学・技術が世界を魔術から解放したことと切っても切れない関係にある。世界が科学的・技術的になればなるほど、世界を「意味のある」ものとして体験することは不可能になる。」

ゆえに意味を求めることは近代社会を欲しないことに等しいとし、

そうでなければ単なる現代人の贅沢病だと著者は説く。

「逆説的なことだが、意味が見つからないという喪失感は、文化的な意味がさまざまの形で過剰に提供されていることの結果である。」

世界の複雑性・不確定性に無理な意味付けをすることをやめ、

科学技術で単純化することによって、受け入れたのが今の社会。

「近代的技術の文化は、意味を問わないこと、すなわち不確定性(コンティンジェンシー)を認めることを前提とする。技術的作動がトラブルなしにいくことによって、その技術を使う習わしはそれ自体が価値となり、定着する。」

ただ過去の事象から求めた確率・統計によって、

これから起きる偶然を飼いならそうとする近代社会の試みは、

あらたな宗教の形とも捉えられないだろうか?

「私見によれば、統計が好まれるのは、構造を解明しなくとも数を比較するだけで複雑な諸連関を理解できるように思わせるからに他ならない。」

確率・統計は「意味」を求めるというよりも単なる「逃げ」の一手か?

資本主義が宗教に代わる存在

著者は中世の宗教に代わる存在として資本主義を例にあげている。

「資本主義は純粋な祭儀宗教である。」

「流行という儀式によって商品を物神として崇拝することが、資本主義の祭儀の唯一の中身だ。」

「現代の練達した市場戦略家は意味なき世界の市民を消費による救済の約束によって惹きつける、と言ってもいいだろう。ブランドには精神的な付加価値がある。市場は意味の舞台になる。」

「われわれは、ブランドとモードの多神教に生きている。」

科学技術によって、宗教からの脱魔術化に成功したが、

意味を求める人々の宗教的欲求は新しい舞台を必要とした。

世界の複雑性・不確定性から何らかの意味を見出したい!

という人間の根源的欲求を抑えることはできないようだ。

たとえそれが幻想にすぎないとしても。

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