富と幸福・その2

昨日に引き続き、名言数珠つなぎで遊んでみた。その1はこの記事
まずはヘロドトス「歴史」。ソロンとクロイソスの有名な問答から。

「どれほど富裕な者であろうとも、万事結構ずくめで一生を終える運に恵まれませぬ限り、その日暮らしの者より幸福であるとは決して申せません。腐るほど金があっても不幸な者もおれば、富はなくとも良き運に恵まれる者もまた沢山おります。……体に欠陥もなく、病を知らず、不幸な目にも遭わず、よい子に恵まれ、容姿も美しい…その上更に良い往生が遂げられたならば、その者こそあなたの求めておいでになる人物、幸福な人間と呼ぶに値する人物でございます。人間死ぬまでは、幸運な人とは呼んでも幸福な人と申すのは差し控えねばなりません。

太字にした部分が特に有名でよく目にするけど、ちょこっと前から読むと、
ヘロドトスが強調したかったのは、富や権力を有する者が幸福とされるけど、
貧しくたって幸福な人生を送れるんだよ、ってことじゃないかな。
この時代には、愚かな王だけに説教していればよかった内容だったけど、
時とともに誤った幸福論は、聖職者 → 貴族 → 一般民 へと伝染していった。

中国・明の時代に書かれた、菜根譚では、

世間では名誉があり地位が高いことが幸福とされるが、そうしたことに無縁の人の方が幸せに生きていることを知らない。世間では飢えや寒さに耐える暮らしは不幸とされるが、そうしたことに無縁の人にはそれよりも苦しい心の悩みがあることを知らない。」

と嘆かれ、20世紀にはバートランド・ラッセルがこう語る。

典型的な現代人が金で手に入れたがっているものは、もっと金をもうけることで、その目的はと言えば、見せびらかし、豪勢さ、これまで対等であった人たちを追い越すことである。

生まれた家柄で人生が決まってしまうような階級社会から解放されたからこそ、
競争を勝ち抜いて、富と権力を手にするんだ!という発想が出てきた。
でも、階級の抑圧から逃れられたのはよかったんだけど、
そのせいか「足を知る」や「分相応」って考え方がどこかへいっちゃった。

分相応で満足しなくなった人間は、必然的に他人のお金をあてにして不正直な行為に手を染め始めます。」---スマイルズ「自助論」

バブルの形成と崩壊には、必ず欲にまみれた人間の不正がセットでついてくる。
バブルにかぎらず、会社の経営でも、事業と関係のない私的流用をすれば、
倒産するか、不正に走るか、の2つしか選択肢がなくなっちゃう。

お金からの心理的な抑圧に悩まされているのが現代人。
でも近年金融市場では、カネ余りが叫ばれ続け、お金の重要性が薄まっている。
高リターンを求めて、でも見つからず、お金が世界中をさまよう…。
お金の権力みたいのが失われつつある証。お金からの解放は近いかもしれない。

※おまけ
ソロンの問答をモンテーニュが「エセー」の中で解説している部分を抽出。
「われわれの人生の幸福というものは、生まれのよい精神が、平静でいられるのか、満足できるのかといったことにかかっているし、規律正しい精神が、確信をもって、決然としていられるのかにもかかっている。とはいえ、人生という芝居の最後の幕を見ないかぎり、この人は幸福であったというべきでない。死という終幕こそは、たぶんもっとも難しいのだから。」

>>>その3へ(「足を知る」がテーマ)

参考文献
ヘロドトス「歴史」 松平千秋 訳・上巻P35
王福振「菜根譚 心を磨く100の智慧」前集66
ラッセル「幸福論」安藤貞雄 訳・P53
スマイルズ「自助論」斎藤孝 訳・P233
モンテーニュ「エセー」宮下志朗訳・1巻P116