中島みゆき「糸」にこんな一節がある。
縦の糸はあなた 横の糸は私
逢うべき糸に 出逢えることを
人は 仕合わせと呼びます
「幸せ」ではなく、「仕合わせ」と表現し、
さらに語源をきちんと意識した深いフレーズになっている。
明治時代に“happiness”の訳語に「幸福」を充てたあたりから、
「幸せ」と書くようになったようだが、「幸」の成り立ちを知ると…
「象形。手枷の形。古い字形からいえば、両手にはめる刑罰の道具である手枷の形である。・・・幸はおそらく倖(さいわい)の意味であろう。手枷だけの刑罰ですむのは、僥倖(思いがけない幸せ)であり、重い刑罰を免れるというので幸というのであろう。」(白川静「常用字解」)
こんな幸せは嫌だ!(笑)
では、もともと「しあわせ」はどのように記述されていたのか、
玄侑宗久「しあわせる力」を参考に由来を簡単に紹介すると、
為合わせ(奈良時代)
私がすることと、誰かのすることが合わさる。
当初の誰か(相手)とは、天。仕合わせ(室町時代)
相手が天ではなく、人間に変わった。
人と人との関係がうまくいこくことを「しあわせ」と呼んだ。
※「試合」もかつては「仕合」と書いていた。さいわい
語源は「さきわい」。にぎやかにいろいろな花が咲いている状態。
経済学は人の幸せ(効用)は消費量に比例して増加する、
みたいな主張してきたけど、そんなのは間違えだった。
「経済史からわかる驚くべき事実は、物質的な豊かさや、子供の死亡率の低下、成人の平均余命の延長、不平等の改善などが実現したにもかかわらず、現代人は狩猟採集時代の祖先に比べて、少しも幸福になっていないことである。」
--グレゴリー・クラーク「10万年の世界経済史」P38
経済的な豊かさは人生の自由度が増すだけで、
それが幸せにつながるかどうかの話はまた別問題。
私たちは「足るを知る」ことがむずかしい生き物だから、
経済的な豊かさがもたらす幸せは、追いかけても追いかけても、
いつも少しだけ先にあって手が届かない。
「他者と仕合うことがうまくいった、そういうことでしあわせを感じる。他者の振る舞いと合わさって、思ってもみないことが起こり、その巡り合わせを楽しいと思った。本来の日本人が感じる「しあわせ」というのは、そういうことだったのではないでしょうか。」
--玄侑宗久「しあわせる力」P111
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