夢窓国師の幸福論/夢中問答集・第1~5段

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とある方の問答集を企画・編集をしようと考えていて、
その参考にしようと、久しぶりに「夢中問答集」を手に取った。

鎌倉末期~室町初期の臨済宗の禅僧、夢窓国師(夢窓疎石)と、
室町幕府・初代将軍、足利尊氏の弟、足利直義との問答集だ。

北条家、足利家、南北朝双方の天皇と敵味方分けへだてなく尊敬を集めた、
夢窓国師の世界観を引き出す、直義の「問い」が素晴らしい。

禅語の「答は問処に在り」(「槐安國語」巻五)は、
問いが本質を突いていれば、すでに答えはその中にあると説く。
語る人だけが優れていても、問答集として編むほどの内容は残せないのだ。

特に興味深いのが「福(幸福)」をめぐっての1~5段の問答。


第1段

「問。衆生の苦を抜きて楽をあたふる事は、仏の大慈大悲なり。しかるを仏教の中に、人の福を求むるを制する事は何故ぞや。」

仏の教えはなぜ幸福を求めることを抑えるのか?という問いに、

「福を求むる欲心をだに捨つれば、福分は自然に満足すべし。この故、仏教に人の福を求むる事を制するなり。福を求めずして、貧しかれとにはあらず。」

幸福を求めようとする欲を捨てれば、幸福は自然と満ち足りるもの。

ただし欲を捨てて貧しく生きよ、と説いている訳ではない、と答えた。

第2段

「問。世間の業をして福を求むるは罪業の因縁なれば、まことに制せらるべし。福を祈らんために仏神を帰敬し、経呪を誦持するは、結縁とも成りぬべければ、許さるる方もあるべしや。」

世俗の幸福を求めることがいけないことは分かりました。
では神仏に祈ったり、お経を唱えて福を求めるのはいいのですか?という問いに、

「もし結縁の分を論ぜば、世の業をなして福を求むるよりも勝れたりと申すべし。しかれども世福を求むるほどの愚人は、とかく申すにたらず。・・・古人の云はく、世法の上において情を忘ずれば、仏法なり、仏法の中において、情を生ずれば、便ちこれ世法なりと云々。」

情(第1段でいうところの「福を求むる欲心」)をもって福を祈るか、
情から離れて福を祈るかが重要だと答えた。

第4段

「問。福を求むる欲心をすつれば、福報自然に満足すべし、といへることは疑ひなし。然れども、この欲心を捨つることの、たやすからぬをばいかがすべきや。」(第4段)

幸福を求めようとする欲を捨てるのは容易ではありません。
どうしたらよいのでしょう?という問いに、

「もし人、欲心をすてんと思ふ志、福をねがふ心のごとく懇切ならば、捨てがたしとはいふべからず。たゞし欲心を捨つれば大福を得と思ふて、これを捨てんとせば、利銭等の計りごとをめぐらして福を求むる人に異ならず。・・・もし人、世間・出世間の一切の欲心を直下に放下せば、本分の無尽蔵忽ちに開けて・・・自を利し他を利することきはまりなかるべし。とても欲心を発すすとならば、何ぞかやうの大欲をばおこさざるや。」

欲を捨てようと思う心が幸福を願う心と同じくらい強ければ捨てられる。
ただし欲を捨てれば福が得られると思って捨ててはいけない。
一切の欲を捨てれば、悟りの境地に達し、心は満たされるだろう。
同じ欲ならこの境地に至りたいという「大欲」を持つべきではないか?と答えた。

第5段

「問。古人のごとく、木食草衣にて、樹下石上にすむことはかなはぬ人、しばらく身命をたすけて仏道を行ぜんために、福を求むる事はなにがくるしかるべきや。」(第5段)

衣食を捨てた昔の修行者の真似をするのは難しく、
体を大切にしながら修行に励み、福を求めてはいけないのですか?という問いに、

「伝教大師仰せて云はく、衣食の中には道心なし、道心の中には衣食ありと云々。もしこの明言をしるならば、道のために福を求むといふもまた愚なり。」

かつて伝教大師最澄が、
「衣食の中に道心はない。道心の中に衣食があるのだ。」
と説いたように、仏道のために福を求めるのは愚かなのだ、と答えた。


以上の問答から夢窓国師の幸福論をまとめると。

幸せになりたいと願うのは、人としてごく普通のこと。
ではその幸せとは具体的にどのようなものを指しているのか?

たとえば名誉や富を追い求めるなら、終わりがなく、
幸せはいつも少しだけ先にあって、決して手が届くことはない。

幸せは求めるものではなく、手の届く範囲の中に見出すべき。
だからこそ、まずは世俗の欲を手放すことが大切。
そうすることで自然と幸せは手の中に収まり、心は満たされるはず。

これを認識しないまま、神仏に手を合わせて願ったり、
修行に励んだところで、幸せになんてなれないのだ。

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