風流は手の届く範囲にある/菜根譚・前集88、後集5

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室町時代の「市中の山居」について先日まとめたが、
似たような心得は同時代の中国で書かれた「菜根譚」にもあった。

静中の静は真静に非ず。
動処に静にし得来たりて、わずかにこれ性天の真境なり。
楽処の楽は真楽に非ず。
苦中に楽しみ得来たりて、わずかに心体の真機を見る。

静寂な環境のなかで得られる心の静かさは、真の静かさではない。
喧噪なかで心の静かさを保ってこそ、道を究めた者と言えるだろう。
享楽な環境のなかで得られる楽しさは、真の楽しさではない。
苦労の中に楽しみを見出してこそ、心の働きを会得した者と言えるだろう。

平穏な日常には進歩がない。
私たちは難しい状況に追い込まれないと、頭を使おうとしないのだ。

しかし危機のなかで心の平静を保てなければ、頭は正しく働かない。
時には気分転換も必要だが外出は必要ない。

趣を得るは多きに在らず。
盆池拳石の間にも、煙霞具足す。
景を会するは遠きに在らず。
蓬窓竹屋の下にも、風月自らかなり。

風流を楽しむために、道具に凝る必要はない。
庭の池や拳大の石にも風情はある。
つまり風景を愛でるために、遠くまで出かける必要はない。
草むした窓辺や竹で編んだ屋根の下にも、風や月は自然と訪れるものだ。

菜根譚の著者、洪自誠(1572~1620)は千利休(1521~91)の一世代前にあたる。
四畳半が主流だった茶室を二乗半にまで縮め、手の届く範囲に全宇宙がある!
と訴えているかような利休の茶の湯にも通ずるものがある。

心を整えてくれる風流は外に求めるものではなく、すぐそばにあるはずなのだ。

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