私たちが本質を見失いがちなのはなぜか?
柳宗悦がこんな言葉を残している。
「大方の人は何かを通して眺めてしまう。いつも眼と物との間に一物を入れる。ある者は思想を入れ、ある者は嗜好を交え、ある者は習慣で眺める。だが、じかに見るのとはまるで違う。・・・じかに見るとは、考えるよりも前に見ることである。」 (柳宗悦茶道論集)
ある種の「思想」や哲学を持つと、たしかに世界を捉えやすくはなる。
でも、私たちは自分が信じるものを補強するために、
なんらかの思想・哲学を対立軸に置いてしまいがち。
ここでふたつめの「嗜好(好き嫌い)」も関わってくるが、
自分が好まない思想や哲学に本質を見出すのはむずかしい。
思想や嗜好が固まってくると、背景知識・経験なしに物事は捉えることは難しく、
思索を巡らすことなく、直観的に判断しようとする「習慣」が付いてしまう。
とはいえ、脳科学や進化心理学の観点からはどうしようもない話ではある。
「人間の脳がパターンを見つけ、そのパターンを使って意味を作り上げるということ、そしてその意味を手の込んだ信念体系に発展させるのは、生得的で普遍的な衝動であり、進化的に大いに有利と言うことだ。信念とは実用という観点から見れば有益で、幸福感や社会的一体性の高まりと強く結びついている。」(ハナー・クリッチロウ「運命と選択の科学」)
だからこそ、たとえば道元は「身心脱落」を説いて、
まずは自己を捨てる(無心・無欲)ことで、本質を掴もうとしているんだね。
「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。」(正法眼蔵・現成公案)
ちょっと困った脳の習性との戦いが古典に残されている。
そんな風に捉えて読み直すのも、また一興と言えるのかもしれない。
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