無欲であれば万物の本質(妙)に迫ることができるが、
欲があればその表面上の形(徼)に触れることしかできない。
「常に欲無くして以て其の妙を観、常に欲有りて以て其の徼を観る。」
老子の冒頭で語られた金言。
お金、情報、経験、人間関係などなど…
無欲・無心になるために、どこまで求め、どこを斬り捨てるべきか?
ちょうどいいところを探して、
- 白楽天「中隠」/官と隠のはざまを生きる(12/04/29)
- 福を求める欲を捨てよ-夢窓国師の幸福論(12/05/03)
- 捨聖・一遍上人のことば(12/09/09)
と今年は古典をいろいろ引いたけど、まだまだ分からない。
今日は久しぶりに道元「正法眼蔵」を開いてみた。
「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。」(現成公案)
「而今の山水は古仏の現成なり。ともに法位に住して、究尽の功徳を成ぜり。空劫已前の消息なるがゆえに、而今の活計なり。朕兆未萌の自己なるがゆえに、現成の透脱なり。」(山水経)
道元の表現は例によって難しいので、私なりに編集すると、
- 自分や他人の心身を所有するという考えを捨てよ(身心脱落)
- 主観・客観に仕分けする以前(朕兆未萌)の自己を捉えよ
そうすることで自己を忘れ(無心・無欲)、
過去・現在・未来が凝縮した今(而今)を感じることができるだろう。
とても分かりにくいけど「主客未分の自己」という道元の教えは、
約700年後の哲学者、西田幾多郎の「純粋経験」に引き継がれる。
まだまだ読まなきゃいけない古典がてんこ盛りですな。
コメント
貴ブログで書かれていたことがきっかけで、今、「夢中問答集」を読んでいます。
名著ですね。
夢窓国師が、素晴らしいのは、禅と教学の両方をマスターしているからでしょうね。
本質(禅の悟り)を教学の教えを基に、言葉に表す。
以前に貴ブログに書かれていた通り、足利直義の質問も素晴らしい。
当時はこのような教養を武士がすでに持っていたのですね。
>無欲・無心になるために、どこまで求め、どこを斬り捨てるべきか?
個人的なイメージですが、薬師寺元館長 高田光胤氏のことば
とらわれない こころ
かたよらない こころ
こだわらない こころ
ひろく ひろく もっとひろく
これが般若心経 空のこころなり
が、私には一番しっくりきます。
無心というものは、心が無いのではなく、ある場所に固まっていないで、全体に広がっていて、必要な時にはそれが集まって働き、またそれが終われば元の通り全体に広がる・・・というような自由さ・柔軟さをイメージしています。
>「常に欲無くして以て其の妙を観、常に欲有りて以て其の徼を観る。」
常に求めると、心がそれに固まってしまう。そうすると、その他のものが見えなくなってしまう。それゆえ「妙」が分からなくなる。
このような感じかと。
夢窓国師「夢中問答集」の分かりやすい解説本がこれまでなかったのですが、禅僧・西村惠信氏が最近、NHKラジオで講義をしているようで、そのテキストがオススメです。
そういえば老子には
「天下に水よりは柔弱なるはなし。…弱の強に勝ち、柔の剛に勝つは、
天下知らざるものなきも、よく行なうものなし。」
というのもありました。
http://www.pixy10.org/archives/11218610.html
やっぱり柔軟性が大事ってことですね。