デカルトの世界を読み解く方法の出発点は「我思う、ゆえに我あり」。
人の意識をあらゆる物事の基礎と捉え、主観と客観を切り分けた。
そんなデカルトを意識したのか、西田幾多郎(1870~1945)は、
主観と客観が分かれる以前の「純粋経験」を重視した。
「経験するというのは事実そのままに知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋というのは、・・・思慮分別を加えない、真に経験そのままの状態をいうのである。・・・純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。これが経験の最醇なる者である。」(「善の研究」P17)
この感覚。日本の歴史・文化を集大成した考え方に思える。
西田幾多郎からさかのぼること700年の鎌倉時代、
曹洞宗の祖、道元は「正法眼蔵」で、
「而今の山水は古仏の現成なり。ともに法位に住して、究尽の功徳を成ぜり。空劫已前の消息なるがゆえに、而今の活計なり。朕兆未萌の自己なるがゆえに、現成の透脱なり。」(山水経)
私に主観があって、むこうに山水という客観があるのではなく、
自己が生まれる以前に(朕兆未萌の自己)、本質があると説く。
西田が説いた主客未分の「純粋経験」の原点は禅にあるのかも。
また禅の精神を受け継いだ茶道には、
「主人は万事に心を配り、いささかもそまつなきよう深切実意をつくし、客にもこの会にまた逢いがたき事をわきまえ、亭主の趣向、何ひとつおろかならぬを感心し、実意をもって交わるべき。これを一期一会という。必々主客ともなおざりには一服をも催すまじきはずの事、すなわち一会集の極意なり。」(井伊直弼「茶湯一会集」)
主人・客人と切り分けたら、一期一会の茶会はできないよという教え。
禅や茶道など持ち出さなくても、日本語の「受け身」表現からも分かる。
日本人は「奥さんが逃げた」じゃなくて「奥さんに逃げられた」と言う。
主体や主語を相手のほうにおいて、自分の立ち位置を一歩引く。
つまり主客の関係のあいまいさや入れ替わりが日本の伝統なんだ。
そして「主=神」と固定された一神教の世界観では発想できない考え方。
日本の歴史・文化を読み解くことで、新たな思考や視野が得られるはず。
もっと分かりやすく編集できるようになりたいな。。。
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