憧れでも妬みでもなくお金と向き合う/井原西鶴「日本永代蔵」

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江戸時代に書かれた、井原西鶴の「日本永代蔵」(1688)。

ビジネス書として優れていることは以前紹介したが、

あのとき読んでからだいぶ月日が経ったので読み返している。

初牛は乗って来る仕合せ・巻1-1

日本永代蔵の冒頭は、西鶴のお金に対するものの見方が示される。
人生はお金がすべて。いやそうではない。やっはりお金では?
と揺れ動きながら、ひとつの見解を示した部分を抜粋する。

「一生一大事身を過ぐるの業、士農工商ほか、出家・神職にかぎらず、始末大明神の御宣託にまかせ、金銀を溜むべし。これ二親のほかに命の親なり。」

一生の一大事は世渡りの道だから、
どんな職業にあっても倹約の神様のお告げに従って、金銀をためなければならない。
金銀こそが両親以外で命の親と言えるものだ。

「人間、長くみれば朝を知らず、短くおもへば夕におどろく。されば「天地は万物の逆旅、光陰は百代の過客、浮世は夢幻」といふ。時の間の煙、死すれば、なんぞ金銀瓦石には劣れり。」

人の命はどうなるか分からないから、
あの世に持って行けない金銀は瓦石にも劣るものだ。

「ひそかに思ふに、世にあるほどの願ひ、何によらず銀徳に叶はざる事、天が下に五つあり。それよりほかはなかりき。これにましたる宝船のあるべきや。」

金銀の力で叶えられない人間の願いは生・老・病・死・苦の5つだけ。
それ以外にはないのだから、金銀にまさる宝などない。

「手遠きねがひを捨てて、近道にそれぞれの家職にはげむべし。福徳はその身の堅固にあり。朝夕油断する事なかれ。ことさら、世の仁義を本として、神仏をまつるべし。これ、和国の風俗なり。」

手の届かない願いを捨て、健康に気をつけて、手近な家業に励むのがよい。

江戸時代の「始末」とは?

冒頭で「始末大明神の御宣託」に従ってお金を儲けよと説いているが、
「始末」を一言で訳すと「倹約」になるが、今と少し意味合いが違う。

この時代の「始末」とは、お金を使わず貯め込むことではなく、
お金を無駄遣いせず、使うべきところで使うことを指していた。
持っている金を使って、どのように人とどう繋がり、信用を得るか。
それが当時の商人の第一条件としての「始末」だった。

そして始末と才覚があれば、身分も生まれも関係なく、
大商人や大名までもが頭を下げる存在になれる道が開かれる。
だからこそ金儲けは尊い、というのが西鶴の考え方だった。

憧れでも妬みでもなくお金と向き合う

西鶴は人生はお金がすべてではない、と相反する考えを挟みつつも、
お金で買えないのは、生・老・病・死・苦の5つだけだと指摘する。

それならば、金持ちを横目に指をくわえて憧れるだけではなく、
まずは健康に気をつけて、目の前の仕事に励めと説いている。

また自分には商売をはじめる元手もない、と妬む人もいるだろう。
そんな読者に対して西鶴は他の話の中で、

  • 大工の落とす木くずを拾い集める(「煎じよう常とはかわる問薬」巻3-1)
  • 米俵からこぼれ落ちた米粒をほうきで集める(「波風静かに神通丸」巻1-3)

というように人が見向きもしないものに価値を見い出して、
事業の元手を作り、大成功を収めた商人の例を示している。

憧れでも妬みでもなくお金と向き合う。
それが今も昔も変わらぬ、人生で大切な姿勢と言えるだろう。


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